魔魅の子孫

Episode.1

「――何て言ったの。サグニ」 「ファラデシカ殿から、近くお会いできないかとのご伝言が」 「やっぱりそう言ったのね!」  シェカは両手で頬を挟んだ。わけもなく窓辺へ駆け寄ろうとして、着くまで待てずに途中でくるりと回転する。スカートがふわりと浮き上がった。 「お姉様の方からなんて!」 「例のないことです」  舞い上がる主人に対してサグニは冷ややかだった。 「それだけ重大なご用かと。お心に留めておかれた方が」 「わかってるわよ」  水を差されて少女は露骨に嫌な顔をした。 「結婚を決めたって言われても拗ねないわ」 「……左様ですか」 「その間は何かしら」  一睨みして、椅子にすとんと腰を下ろす。滅多にないどころか初めてのことだが、何の用事だろうと考える前に、無心に喜んでも構わないではないか。 「それで。いつと約束してきたの」 「十二日後の――」 「そんなに先!?」 「ファラデシカ殿のご都合のよい日が限られますので」 「それはいつといつ」  追及すればサグニは渋らずに答えたが、その日のシェカ自身の予定も一々言い添えた。どれも中止にも延期にもできぬという主張であるのは明らかだったが、そんなことで引き下がるシェカではない。 「五日後の、ノーラとの観劇を先に延ばせるわね」 「ご招待でしょう。お断りに?」 「あの子ならわかってくれるわ」  少女は断定した。 「ホラノーリエ様ご自身が構わぬと仰ったとしても、ペレノイ家の方々がご気分を害されます」 「最初から格が違うと思われてるわよ」  ひらひらと手を振る。拍車をかけてどうするのかとは青年は言わなかった。 「……では、そのように交渉を」 「任せたわ」  ことさらにっこりとしてみせる。主人と使用人なのだ。進言や諫言というものは認めるけれど、聞き入れるかどうかは主人が決めること。  軽い溜め息と共に踵を返す使用人を、ただ見送ったのは令嬢の油断だった。    男爵家の一人娘とされるシェクネシカ=アマルスには、実際には異腹の姉がいる。男爵家の系譜にその名がないのは、町の女に父が産ませた庶子であるためだ。名家の出である母との婚約話が持ち上がったときに、金をやって町から出ていかせたという。妾の扱いも受けなかった女は隣り町のさらに隣り町へ移り住み、男爵とは二度と面会しないまま没したとのことだった。  いささか反抗的で潔癖な令嬢は、父は身勝手で考えなしだったし、女は浅はかか打算的だったろうと、心の底から軽蔑を覚えた。けれどもまだ見ぬ異母姉のことは反動のように慕わしく感じ、父の外聞が悪かろうが女が我が子を手放すことになろうが、本当は男爵家で育てられるべきであったと考えた。ファラデシカと貴族らしい名を与えたからには、最初は父にもそのつもりはあったのかもしれない。同じ血を同じだけ引く人間がこの世にいるのであれば――近しくありたい、ありたかったと思った。  けれどもその頃には真実の長女は既に成人して働いていて、今さら引き取るでもなかった。それに一度目に会ったとき、馴染みある町をわざわざ離れることも貴族界へ後から足を踏み入れることも、望まないと本人が明言している。ならばせめてと生活費の援助を申し出れば、自分の食い扶持ぐらい自分で稼げていると、思いなしか厳しくぴしゃりと断られた。男爵令嬢であったはずの者が働いて稼いでいるということ自体、シェカには納得しがたかったがどうしようもない。妹と会うことは楽しんでいるらしく、食事に誘えば応じてくれるけれど、姉が姉と大っぴらに名乗る日はどうにも来そうになかった。  姉の方からも自分に連絡をつけられるように、サグニに命じて用意させた通信網を、姉が利用したのも今回が初めてだ。それだけ重大な用事であろうという指摘自体に異論はない。それがどんな報告でも相談でも依頼でも、十二分に応えてやろうというシェカの意気込みは、結局十二日の間お預けを食らうことになった。ノーラが快諾してもその父の侯爵が立腹するかもしれないからと、ノーラへの打診をサグニが握り潰したのである。強硬手段に出られては、負けるのは令嬢の方であった。  従って当初の期待よりも七日遅れて、男爵家の家紋の入らない馬車はいつもの店に着いた。この町で三番目になるという高級料理店である。一番目と二番目は敷居が高すぎて、姉には入りづらいらしい。ここだって十分雲の上だけど、と笑った姉はけれども実に落ち着いて見えて、町一番の高級店にも気後れするようには思えなかった。  導かれた個室に姉一人が待っているのを確認し、二刻後にお迎えに参りますと告げてサグニは引き返した。迎えの時刻に容赦なく連れ帰る以外、姉妹の語らいの邪魔はしない。 「待った? お姉様」 「待ったのはあなたじゃないの? よく十二日も待てたわね」  姉妹らしい姉妹のように、ファラデシカ=エノフは軽口を返した。  母親譲りという金色の巻き毛は妹よりもずっと濃い。飾りの少ない藤色のドレスは品がよく、似合う。姉のセンスであるかもしれず、あるいは仕立屋の腕であるかもしれぬが、いずれにせよシェカは何か鼻の高い気分になる。やはり血は――生まれは争えない。  胸元に光る白梅をあしらったブローチが、自分が贈った物であることも嬉しかった。梅はアマルスの紋である。勿論家紋は家紋らしく図案化したものであって、ブローチの写実的な梅花とは大分趣が異なるのだが。生活費という話になると受けない姉も、贈り物を突き返しはしなかった。 「それにしても驚いたわ。お姉様から会いたいと言ってくれるなんて」  サラダとスープを経てメイン料理が出てきたところで、即ち給仕が当分現れない段階までコースが進んだところで、シェカは水を向けた。姉の方から会合を望まれた妹の、浮かれ気分はそこまでだった。 「拾っ……た?」 「二人ね。兄弟」  ファーリャは指を二本立てた。 「ど……どうして」 「だって、ねえ。普段通らない道なのよ。普段行かないところに行った帰りで、そこからの帰りにも普段は使わない道なのよ。何となくいつもと違う方に行ってみたら、他の誰にもみつからないでそこにいたのよ。それはあたしが拾うしかないでしょ」 「そう?」 「その場の流れとか空気とか、大事にするのよあたし」  少年の片方が聞けば考え込んだろう発言であることは、無論シェカにはわからない。どんな用事でも応えようと思った、その『どんな用事でも』という部分が甘かったことはよくわかった。人は、時に――予想もつかないことを、言うのだ。  姉が。子供を。拾ったと? 「運命の導きには従うのよ、って言った方がいいかしら。職業柄ね」  ファーリャはようやく手を動かして、青豌豆を添えた鶏挽き肉の揚げ料理の、端の方を一口大に切った。溶けたバターが流れ出る。 「……教会に連れていくものじゃないの、普通は? 何歳?」 「上で十歳ぐらいかな」 「十歳なら、預かってくれる年でしょ」  孤児でも捨て子でも、居場所のない子供の行き先といえば、まずは教会を思い浮かべるものではないのだろうか。  実際、思い浮かべてはいたらしい。やっぱりそうよねえ、と姉は眉を寄せた。 「でもね、あたしここの牧師好きじゃないのよ。母さんが死んだときに色々言われたの」 「……ああ」  その点に関してはその牧師と意見が合いそうだと、異母妹は曖昧に相槌を打つ。潔癖な少女が嫌った父たちの行いは、聖職者にも好まれるまい。尤も聖職者であれば、死者に対しては寛容であるべきだろうけれど。 「だからって、お姉様が引き取らなくたって。一時的っていったって」 「――反対する?」  不意に、声が低くなった。シェカは急速に喉が渇くのを感じた。  気を悪くしたのではない。ただ、反対だと答えれば、ファーリャは二度とこの話を聞かせないだろう。といって方針を変更して、兄弟を教会に任せることもあるまい。この件に関して協力を仰がなくなるだけのことだ。協力を仰ぎたいことが、今現在あろうと将来起ころうと。 「……ううん……驚いただけ。あんまり、意外で」  ファーリャの妹は、ようよう、言った。 「だって……子供好きっていうわけでもないでしょう、お姉様」 「そうね、子供がってわけじゃないわ。弱いのは、兄弟ね」 「兄弟?」 「あなたのせいよ、妹ちゃん。昔はそんなことなかったの」  にっ、と唇を裂く。何とも返しようがなかった。  ずっとその存在を忘れていた気のする肉料理に、逃げるように手をつける。中のバターがそろそろ冷めて固まっているのではないかと思い、そうなっていなかったことに何か理不尽な気分になった。  驚いただけという言葉で、本当に誤魔化せたのかどうかはよくわからない。少なくとも追及はされなかった。喜んで鵜呑みにしたのかもしれないし、不自然を感じながらも気づかないことにしたのかもしれない。反対されない方が、勿論嬉しいのだろうから。 「――お姉様」  シェカは顔を上げた。 「その子たちの母親の、名前と特徴はわかるかしら? それからその人の持ち物か、その人の作った物があればなおいいわ」  協力するわと言われれば、より嬉しいだろう。こちらから言い出せば、さらに一層。  努めて得意げに、指を一本立ててみせる。恩着せがましく聞こえるぐらいで寧ろ丁度よい。積極的に――映りますように。 「男爵家の力を見せて差し上げましてよ」  意外そうとも満足そうとも言える笑みを、ファーリャは浮かべた。   「……サグニ」 「はい」 「昨夜、お姉様に頼まれたのだけど」 「昨夜と仰いましたか?」  長く仕える使用人は眉を上げた。 「そうよ。他の、いつがあるの」  口ではそう返しながら、それなら昨夜のうちに話せばよいものをと自分で思う。他ならぬ姉の頼み事を、一晩寝かせるなど自分らしくない。  人捜しを、と言いかけてやめた。拾ったという兄弟の話が先だ。  サグニの怪訝な表情は、やがて幾分呆れたようなそれになったが、シェカは碌に見ていなかった。 「人捜しというのは、行方が知れないというその二人の母上を?」 「ええ。手懸りは預かってきたわ」  尋ね人の名前と特徴と、失踪直前に息子たちに渡したという指輪とを、ファーリャは用意よく持参していた。依頼するつもりはやはり最初からあったのだろう。妹の方から言い出すとは、やはり思っていなかったにしても。  所有物や制作物が役に立つのは、魔術でその持ち主や作り手を追えるからだ。術師なら誰でもこなせるような簡単な術ではないらしく、そのためか一般にはあまり知られていない。魔術に直接縁のないシェカやファーリャが知っているのは、以前も一度似たような件で力を貸し、借りたためだ。正確には姉自身が困っていたのではなく、その友人の幼い妹が突然姿を消したのであって、身も蓋もないことを言えば、シェカはサグニに丸投げしたにすぎなかったが。  姉にはああ言ったけれど、何も男爵家が総力を結集して捜索に当たるわけではない。シェカが自由に動かせるのはサグニぐらいしかいない。ただそのサグニが滅多なことでは無理だと言わず、自分一人では不可能と思えば助け手を探して、主人の希望を見事叶えてみせるのだ。涼しい顔をして実はなかなかの負けず嫌いなのである。  筆記体を書けない姉の手になる固い大文字の覚え書きと、首にかけていたのだろう紐を通した指輪を、受け取って青年は矯めつ眇めつした。あなたが使うわけじゃないでしょうと呟いたのを聞き流して、意匠が気になりますねと指輪を示す。 「松葉です。安物ですが、高級品を真似たようですね。模造と呼ぶには拙いが」 「ああ……だから取られなかったのね」 「取られる、と?」 「みつけたら、子供たちを引き取るように説得して。みつけただけでは半分よ」  今度はこちらが聞き流してやる。  形見よろしくそんな物を残して消えたとなれば、子供たちの許へ戻る予定はどうも当分なさそうだ。みつければ引き渡せるというわけでもないようだと、子供自身が考えたことをシェカも考えた。  それでは意味がない。姉のところにその二人が残ったままでは。 「それと……子供二人を養うのに十分な、支援を。その二人がお姉様のところにいる間」  そこまでの余裕は流石にないだろう。その子供たちに不自由をさせないためだと主張して、シェカはそれを承知させたのだった。尤もファーリャは思いの外あっさりと、申し訳ないけどお願いするわと言った。シェカは心中複雑だった。自分自身のためには頑として受けなかったのに。その子たちが、そんなに、気に入ったの? 「拗ねないのではありませんでしたか」  たしなめるようにサグニが言った。思いなしか、温かく。 「拗ねてなんて……いないわ」 「左様ですか」 「それより、もう一つあるのよ」  ファーリャからの依頼、というよりも注進。少年たちを最初に拾ったという者たちのことがある。 「言っておくけど、母親を捜すのが先よ。それを疎かにはしないでちょうだい」  釘をさした。それが最優先だ。注進をサグニは気にかけそうだったが、シェカは正直大して関心を持たなかった。  それよりも子供たちのことだ。少しでも早く母親がみつかって、母親が子供たちを引き取る気になって、子供たちが姉の周りからいなくなってしまえばよい。自分には届かないような、姉のすぐ近くから。  拗ねていないとすれば、妬いていたに違いなかった。    次に会うときに、打ち明けてしまおうか。  家出の計画でも練るような心持ちでシェカは考えていた。  教えてしまおうか。自分たちが、何者なのか。  サグニが聞けば寧ろ、黙っていたのかと呆れるかもしれない。恐れることでも恥じることでもない、周りに知られればまずいにしても、本人に隠すようなことではないと。……自分が安全圏にいるから、そんなことを言えるのだ。  告げてしまおうか。自分たちが――アマルスが――クイの子孫であると、いうこと。魔物の血を引く者だということ。その血の目覚める可能性が、あること。  それは当然ながら最大級の秘密で、アマルスの血を引く本人と、ごく僅かな側仕えしか知らされない。嫁いできた母は聞かされていないはずだし、嫁いでいった叔母に子供がいれば逆に聞かされていただろう。  クイ。代表的な、有名な魔物。その姿は人間と変わらず、人間に紛れて人間のように生活していると言われる。食人鬼や吸血鬼と混同されたり、魂を抜き取るとして死に神と同一視されたり、誘惑して精気を吸い取る色魔扱いをされたり、その伝承は様々だ。クイの中にも格の違いがあって、ちゃちなものから恐るべきものまでいるのだと、まことしやかに語られることもある。  あらゆる化け物を無節操に継ぎ足されているわけでは、しかし、ない。クイの定義とも言うべき法則はあった。  一言で言えば──クイとは、『奪う』魔物である。  尤もこれは世間で言うクイの話で、実際とは異なる部分も多かった。食人を行ったクイがいなかったとは限らないけれど、クイとしての習性ではない。殺人を行った者がいた可能性はあるけれど、犠牲者の魂をあの世へ運ぶような役割は担っていない。誘惑は、その気になれば容易かもしれない。目を奪い心を奪う美男美女がよく生まれるというから。  市井で育った姉はしかし、クイの正しい知識など持たない。奪う魔物としてのクイしか知らないはずである。根本的な誤解から正す自信がなくて、シェカはアマルスの血の意味を姉に伝えていないのだった。それに──正しい知識も、気持ちのよいものではない。わざわざ教えることはないと思った。  けれど。 「わたしたちは魔物なのよ。お姉様」  長椅子にもたれて、令嬢は独りごちた。 「いつ目覚めるかわからないのよ、曾お祖父様のように。その子たちが可愛いなら、離れた方が安全なのではなくて」  空々しく響いて溜め息が出た。これはこれで、正論であるはずなのに。  シェカやファーリャはクイの子孫だ。今はまだ。曾祖父は──クイそのものだった。クイそのものになった。覚醒して。  四代続けて目覚めなければ、魔が失せたということだと言われている。サグニの家がよい例だ。何百年も前にアマルス家から分かれ、二人ほど覚醒者を出した後は片鱗すら見せていない。サグニート=エニュオはクイを先祖に持つだけのただの人間である。  曾祖父から数えて四代目のシェカは、魔の継承が絶えるか続くかの境目にいる。自分が化けなければ自分の子孫は安泰であるわけで、つまり化ける可能性は却って高かった。ここを逃せば絶えてしまうクイの血が、自己保存本能を発揮するらしい。だからこそ今まで続いてきたのだ。エニュオ家のような分家では途切れることが多いけれど、アマルス家では必ず四代以内に誰かが目覚めてきた。  魔物の本能の開花する日が来ることを、シェクネシカ=アマルスは恐れていた。クイそのものとなった曾祖父の行いを知ったときから、民間の伝承と関わりなく、シェカにとっておのれの家系は忌むべきものとなった。実のところ嫌悪の対象は、クイというよりも曾祖父の血であると言えたが、その区別を少女はつけなかった。  異母姉の存在は、それゆえ支えだった。覚醒の危険を同じだけ孕むという連帯感。ならば早いところ事実を教えて、心構えをさせるべきだとサグニは叱るだろうが。  そう、ファラデシカ=エノフも目覚めうる魔を秘めるのだ。魔の本性を現して、手始めに手近な者を襲うと決まっているわけではないけれど、近しい者ほど襲われたときに危うい。守りたければ、離れるべきだ。 「……何を考えているのかしら」  自嘲気味に呟いて首を振った。自分たちへの恐れは本物だけれど、今さら姉に告げようなどと思いついたのは、姉に嫌われずに姉の許から追い払いたいからだ。五歳以上も年下の子供たちを。情けないと言おうか、みっともないと言おうか。  自分で自分に呆れながらそんなことを考えていた何日かは、後から思えば随分と呑気な時間だった。   「何て……言ったの」 「ウィアラ・イルムが子供たちを置いて逃げたのは、子供たちの父親がクイの血を引くと知ったためでした」 「どうして今さらそんなことがわかるの!」  食ってかかった令嬢の前に、腹心は落ち着いて掌を広げた。安物の指輪が鈍く光った。 「ウィアラ・イルムとその者は夫婦ではなかった。その者は去る前にこの指輪を与えたのです。子が生まれたとき、証となるように」  指輪の元の持ち主を、サグニから依頼を受けた術師は見事捜し出した。一方でサグニはその意匠について自ら調べてもいたらしい。松葉の紋章を厳かに示す。 「異国のある名家の紋です。クイに連なる、アマルスとは異なる流れの」  父親になる覚悟がなくともクイの子孫の自覚があれば、我が子には目印をつけておくものだと青年は言った。親子の認知のためにではなく、魔を秘める存在の識別のために。クイを詳しく、正しく知る者に、その子孫と見分けられるように。  その男がその家の人間であったとは限らない。ゆえあって家と故郷を離れ、国境を越えて移ってくる者や、旅行者として訪れて軽はずみに子を残す者もいるだろうし、その子孫であったかもしれない。その家に属していなくてもその血から魔が消えていなければ、その家紋を目印にするのはおかしなことではなかった。サグニに覚醒の可能性があり、自分の子供と別れる破目になったとしたら、やはり梅の紋を入れた品を与えただろう。梅は厳密にはアマルス家というよりもアマルスの血を示す。  子供の父親から受け取った指輪を、尤もウィアラは生活費の足しに売り払っていた。意匠を真似た指輪を代わりに作らせたのは、もしもその男と再会することがあった場合に、なくては都合が悪いだろうと考えたためらしい。替え玉の代金を差し引いても十分な金額が残ったのなら、品物の質にも当然それだけ差があるわけで、本物を知っていれば偽物であることは一目瞭然だろうが。よく見なければ気づくまいと高を括ったのだろうか。  異国の家の紋章など女は当然知らなかったし、ましてその家がクイの子孫に当たるなど思いも寄らないことだった。けれども最近になって、目を留めて息を呑んだ者がいたという。あんた、それをどこで。それは魔物の印だぞ。  最初は本気にしなかったけれど、段々と怖くなってきた。言われてみれば思い当たる節があるような気がしてきた。そうしてついには指輪の写し共々、その男の子供を置いて逃げ去るに至ったのである。 「そんなこと――そんな」  自分が何を言おうとしているのか、何を言いたいのかよくわからないままシェカは口を利いた。 「家紋まで知るぐらいなら関係者でしょう。それなのに、そんな――言い方を?」 「被害に遭った側の関係者やもしれませんよ。悪事を働くクイもいれば愚かなクイもいるでしょうし、兼ね備えた者もありえます。人を襲った上で、自分はクイであると明かしてしまうような」  困り者どころではありませんが、とサグニは付け加えた。目印だけを知る者がいたことに、戦慄する余裕はしかしシェカにはなかった。  それでは――その子供たちも、同じなのだ。その父親が自身の血脈を正しく理解していたとすればだが。実は五代以上顕現が見られておらず、危険が失せていることに気づいていないというような事情がないとすれば。  姉と自分との秘密の絆に割って入られたような、湧き上がった不快感が筋違いであるという自覚はあった。嫉妬もあっただろうか。父から魔の血を受け継ぎながらその意味を知らされずに育つ、子供たちの境遇が姉と重なることへの。  けれども、何より――何だろう――そんな下らないことよりも。 「……それで、わからせたのでしょうね? クイの伝承に、誤解が多いこと」  みつけるだけでは半分だと、自分で言ったのを思い出す。根も葉もない話ばかりではないが、何も目的は教育ではない。我が子から逃げる必要はないのだと、ウィアラが思えばそれでよいのだ。  返事がなかった。 「サグニ」 「そればかりは」 「どうして!」  つかみかからんばかりに令嬢は叫んだ。 「恐れることではないと、わたしには散々言うじゃないの! 曾お祖父様のことは曾お祖父様の問題で、クイの血の問題ではないと。同じことを言えばよいだけでしょう!」 「それでもお嬢様は恐れておいででしょう」  青年は静かに指摘した。 「根づいた恐怖を拭うのは難しい。こればかりは、わたしには」 「……嘘よ」  力が抜けたように座り込んだのは、サグニの力が及ばないことを、自分が証明する形になったためではなかった。 「おまえが、できないと言うなんて」  信じられなかった。自分でなくとも誰かにできることならば、その誰かに実現させる腹心が、匙を投げるなど。その誰かをみつけることもできないと認めるなど。何かとても絶望的な事態であるような気がした。  ……では、ウィアラは息子たちを引き取らないのか。少年たちはファーリャの許に留まることになるのか。クイの子孫が三人、同じ屋根の下で暮らすことになるのか。  ぞっとした。子供じみた嫉妬ではない感情の正体を悟った。  クイは引き合うのだ。その血の拡散を防ぐために。  クイは呼び合う。  凍える少年たちがいた道へ、姉が足を向けたことも。子供好きでもない姉が、当たり前のように連れ帰ったことも。ひょっとしたらウィアラが失踪して、その子らがこの町へ来る契機を作ったことさえ。  クイの血のなせる業だとしたら。  目覚めかかっているか、目覚める準備があるということなのではなかろうか。三人のうちの誰か、ではなく、三人ともが。誰か一人であれば、三人集まった意味がない。  それなら説明がつくというものだ。少年たちが無謀な旅に出たことも。ファーリャがファーリャらしくなく、子供を拾ったり異母妹に頼ったりしたことも。  ――お姉様。  死病の兆候を見て取った心境に似ていた。姉はいずれ、化けるのか。曾祖父のように目覚めるのか。人間の姿を保ったまま、その中身は魔物と化すのか。  クイの血を少年たちも引いているならば、その安全のために離れた方がよいという口実は使えない。クイの力は基本的に、クイには利かないものなのだ。そんなことは、けれどもどうでもよい。 「ファラデシカ殿には、わたしからお伝えしますか」  サグニが言い、シェカは見上げた。指輪を固く握りしめた拳を見れば伝わるだろう、押し殺した悔しさは顔には表れていなかった。 「あるいはファラデシカ殿が、ウィアラ・イルムを説得できるやもしれません」 「……そうね。頼むわ」  無駄だろうと、どこかで思う。少年たちを何が何でも母親に返してしまおうとは、姉は考えないだろうから。それともウィアラと同じように、少年たちを恐れるだろうか? 子は母と共にいるべきだと尤もらしいことを言って、魔物の子孫を遠ざけようとするだろうか?  もしもファーリャの説得によってウィアラが考えを改めたとしたら、先の仮説は誤りだったことになる。覚醒を控えたクイの血が呼び合ったのではなく、心臓に悪い偶然にすぎなかったことになる。  どうか、そうであってほしい。ファーリャの妹は真剣に祈った。

〈続〉

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