聖女のあゆみ魔女のあしあと

1.Awake

 異界研究会とはいうものの、異界研究は名目に過ぎない。放課後もすぐには帰宅せず、気の合う友人だけで集まって居残るための口実だ。五人いれば設立に必要な人数は満たせたし、活動内容を研究としておけば、文化祭の直前にでもレポートをまとめれば格好がつく。例えば文芸部とて、年に三回原稿を持ち寄って部誌を発行しているだけだ。部室はあるが、製本作業のときに使うぐらいで、普段集まることはないと聞く。それでも部室が使えなくなることはないし、活動量が少ないと咎められるでもない。  そもそも研究といったところで、一介の高校生にできることなど高が知れている。何せ対象が異界なのだ、本を読んでまとめ直すぐらいがせいぜいであろう。しかし幸い、高校の部活動としては、それだけでも大分様になった。異界の存在を確認するより前に、架空の異界を舞台にしたフィクションが多数作られていたため、現実の知識はその中に埋没する格好になっているのである。異界の実在を知り、かつその名称や構成を知っている者でさえ、両者が結びついていない場合も少なくない。正しい情報を拾い出すことは、さほど楽々とできる仕事でもないのだった。  そうしたことを思いついて実行する友人たちには呆れたものだけれど、それに乗って研究会に所属した金坂華鈴(かなさかかりん)も、五十歩百歩というものであった。偽りの看板を掲げることに罪悪感は覚えても、友人たちと気兼ねなく過ごせる場所と時間をそれで確保できるなら、そんな引っかかりは押し殺してしまいたかった。友好的に言葉を交わせる相手というだけなら少なくはなかったが、引っ込み思案が災いして、友人らしい友人となると長らくいなかったのである。友人たちが居残りたがる、というより帰りたがらない理由も知っているから、強く反対する気にもなれなかった。  どうして親しくなったかももう覚えていない。喋るようになったきっかけなら記憶にある。水尾澄夜(みずのおすみや)は一年生の四月に隣りの席になって、向こうから積極的に構ってくれた。土倉刃(つちくらじん)は中学も同じだったけれど、当時はこれといった接点もなく、同じ高校に進んだ同窓生が他にいなかったことで、ようやく、しかし自然と、喋るようになった。火宮愛花(ひのみやあいか)と木津誠(きづまこと)は、誤解から叱責されているところに口を挟んで助けてくれたのが出会いだった。とはいえ、その程度の接触ならば、それ以前にもそれ以外にもあっただろうに──縁、と片づけるしかないだろうか。  こうした友人がいるのは幸福なことだ。そうでなければ一人で抱えねばならなかっただろうから。

「魔姫(まき)と聖姫(きよき)の伝説って、知ってる?」  切り出せば、四人は一斉に目を向けた──ような気がしたが、緊張のせいで本当はほとんどわかっていなかった。気の置けない友人しかいない、余計な人間に聞かれるはずのない、安全な部室であるというのに、立ち慣れない舞台の上にいるかのようだ。 「異界の話だろ。青緑界だっけ」  そう返ってくるとは予想していなくて、困惑して言葉に詰まる。 「青緑界に限らないさ。魔姫はどの異界にもいる。赤橙界──この世界にも」  横からすばやく訂正が入った。 「え、この世界にも神の宝ってあんの」 「神の宝を狙うのは青緑界の魔姫。赤紫界の魔姫なら魔獣の解放を狙う」 「赤紫界……」 「漢字発祥の地。漢字は通じてかな文字は通じない世界」 「……あー」 「ふふっ、本当にわかってる?」 「で? 魔姫と聖姫がどうかしたの?」  急にバトンが戻ってきて面食らう。  口実に過ぎなかったはずが、律儀にと言おうか、部室にはしっかり異界に関する資料が並べてあり、部室に集まっているときに異界の話題が出ることもしばしばあった。設立当初に華鈴が矢鱈と気にしたためかもしれないし、発案者の誠は最初からやる気があったのかもしれない。全く興味関心のないテーマでは、看板とはいえ扱いにくかろう。ひょっとすると、居残るための方策だという話の方が口実で、研究会を立ち上げるための頭数を揃えるのが目的だったのではないかと、冗談混じりに言ったのは愛花だったか。  刃などは異界に知識も興味もなかったはずで、勉強も勉強めいたことも好まないから、本棚が埋まり始めた時点で、話が違うとぶつくさ言っていた。比較的抵抗を覚えさせずに済みそうな、実在の異界を舞台にした漫画やライトノベルを探してきたのは澄夜である。華鈴にとってもそれらはかなり、学習の取っかかりとして役立った。ちなみに、何かのついでに同級生に訊いてみれば、漫画そのものは読んだことがあるけれど、内容のみならず舞台設定もフィクションだと思っていたとのことだった。  ……異界の話だ、と即座に答えたのが刃であるとは。しかも固有名まで挙げるとは、随分と影響されたものだ。訂正したのが誠だったのは特に意外でもないが。 「あの……そろそろ、魔姫が何かする頃じゃないかと思って。前のときから、三百年ぐらい経つんでしょう?」 「そうなの?」 「そうだな」  澄夜が目を向けて、誠は一つ頷く。  魔姫と聖姫の伝説。三百年に一度、魔姫が現れて悪事を働き、聖姫がそれを退治する、という。簡潔なものだから、明快なようにも漠然としているようにも思える。魔姫がどこから来るのか、聖姫がどのように定まるのか、そうした具体的なことは、少なくとも知られてはいない。 「魔姫が……何かやったら、それが魔姫だってわかるのかしら」 「赤橙界じゃ魔姫の行動に一貫性がないからな」  青緑界なら、神の宝を狙った者がそうだろうとわかる。赤紫界なら、魔獣の封印を狙った者がそうだろうとわかる。この世界では、しかしそうはいかない。  記録がある中で、最も酷かったのは無差別殺人であるが、魔姫でなくともしばしば働く悪事であるし、人数で言えば魔姫以上の死者を出した者もいる。単独犯としては最多かもしれない被害者を出した魔姫もいるが、そのときは殺人としては未遂に終わった。刑務所の壁を派手に壊して脱走し、収容されていた他の凶悪犯を世に放ったこともあったか。特徴的なのは重要施設の破壊であろうか。それ自体が重要である史蹟であったり、史料を多く収蔵していたり、最先端の研究を行っていたり、個々の人間というより文化面での被害が大きくなるもの。魔姫に関する記録自体が、それで大量に焼失したこともある。  誠は実にすらすらと述べた。机に頬杖をついて聞き入っていた澄夜が、詳しいね、と相槌のように言う。前に調べたことがあると語り部は返した。 「それらしい時期に派手な事件を起こした若い女を、多分そいつだろうと推定するしかないだろうな。周りとしては」 「じゃ、偽物が混ざってるかもしれねえな。つうか、大体、本物って赤橙界にいるわけ? 異界の話パクってきたんじゃなくて?」 「異界の文化って意外と紛れ込んでるものね」 「この件に限ってはない。だったら聖姫が毎回きちんと出るのはおかしいだろう」  やけにきっぱりと誠は断じた。いささか不満げに唇を尖らせて、刃はしかし言い募らずに、華鈴に視線を向けることで続きを促した。  自分が口火を切ったのに、自分以外の間で話が進んでしまうことは、間々、あった。親しい相手であってさえ、なかなか口を挟めない自分が悪い。友人たちはそういう性格を把握しているから、意識的に主導権を返そうとしてくれるのだった。けれども今は、このまま脱線していけばよいと、無意識に願っていたらしい。  思い切ったつもりだけれど、やはり、怖いのだ。本気にしてくれなかったら、という不安のためばかりでなく。口に出してしまえば、それゆえに戻れなくなるような気がして。  ――けれども、逃げ続けてもいられないだろう。もう踏み出してしまったのだから。 「魔姫と、聖姫は」  二言で、息が詰まる。深く吸って、吐いて。 「いるよ。この世界にも」  そう思う、じゃなくて。わかるの。知ってるの。 「あの、ね」  わたしが今期の聖姫だから。

 四人の中に、華鈴と同じ電車を使う者はいない。華鈴は一人、駅への道を辿っていた。  根拠を訊かれても、わかるのだ、感じるのだと答えるしかなかった。啓示らしい夢を見たでもない、不思議な声を聞いたでもない、超常的な力が芽生えたでもない。確信と知識が、ただ不意に根づいただけだ。  自分が聖姫であること。魔姫をみつけて、退治しなければならないこと。それが宿命であり、避けられないこと。  過去の聖姫たちが、それを実行してきたこと。魔姫たちの反撃に遭いながら、務めを果たしてきたこと。  説明するのは難しかった。証明することなど、ましてできそうになかった。思い込みだろうと否定されれば、反駁する術はない。尤も、友人たちも態度を決めかねているようだった。法螺を吹いているのだろうとは思わなかったようだけれど、といって俄かに信じられるものでもあるまい。結局、華鈴は逃げるように部室を後にしたのだった。  自分ではなく、愛花だったら。今期の聖姫であるのだと、愛花が告白したのだったら。自分は受け入れられただろうか。……信じただろう。だからこそ、今、友人たちは自分を疑うのだ。騙されやすいだろう、暗示にかかりやすいだろう、企みを持つ何者かに擦り込まれてしまうことがありうるだろうと。  ……本当は、期待した。信じてくれると。  過去の聖姫たちも、ある日唐突に使命を自覚している──らしい。聖姫を輩出する血脈や地域があるわけではない。なれば勿論、最初から仲間がいたわけでもないだろう。多くは仲間に支えられ、助けられていたはずだが、つまりそれは自分の力で得ていったのである。魔姫との対決に至るまでの間に。  びっくりしたけど、華鈴の言うことだから、とか。  力になるよ、とか。  なんで華鈴がそんなことしなくちゃいけないの、とか。  そうは言われなかったことで、自覚する。そう言ってくれるだろうと決めてかかっていたのだ。受け入れて、励まして、慰めてくれるだろうと。重荷を分かち合ってくれるだろうと。  打ち明けるまでには散々悩んだではないか。信じてもらえないかもしれないと、そのときは想定していたはずではないか。知らされても困るだけかもしれない、巻き込まれることを厭うかもしれないとも恐れていたではないか。疑われる可能性も疎まれる可能性も認識していたではないか。いつの間に忘れてしまったのか。十分に悩んだのだから、もう楽にしてくれてよいはずだとでもいうのだろうか。内面で繰り広げた葛藤など、友人たちは与り知らぬことだというのに。  友達甲斐がない、と嘆く性質(たち)ではなかった。第一、戸惑うということは、まともに相手にしてくれているということだ。笑い飛ばすでも、馬鹿にするでも、無視するでもなく。発言が信じがたくても、発言者を頭から疑ってはいないのだ。大体、突きつけられたばかりで、すぐさま答えを出せるものか。事実であると知っている自分が、赤の他人でなく友人に、告げると決めるだけでも時間を必要としたのに。  ……落ち着いて熟慮した結果、距離を置かれるかもしれないけれど。そうなったとて、責められない。本人でさえ、何かの間違いであってほしいのだ。関わりたくないと思われてもおかしくない。なんと虫のよいことを考えていたのだろう。  溜め息を吐いたとき、背後から駆けてくる足音が聞こえた。反射的に道の端へ寄る。広い道路だ、そんなことをしなくとも追い抜くのに面倒はないだろうけれど。  近くまで来て、しかし足音は減速した。華鈴、と声をかけられるのと、見返って誠だと認めるのとはほぼ同時だった。 「送るよ。……というより」  安心を誘うような柔らかい表情を、すぐに引き締めて。 「さっきの続きを話したい」

「実を言うとね。うちは、聖姫の補佐を務めてきたんだ」 「……三百年に一度?」 「異界の聖姫も含めて、だよ。全ての異界を通して見れば、魔姫と聖姫の出現は二十五年周期なんだ」  歩きながら誠は語った。気負うでもなく、特に人の耳を憚る様子もない。人通りが多いわけでもないし、仮に聞かれたところで、伝承と現実の区別がつかないのかと馬鹿にされるだけかもしれないけれど。 「あ、うん、知ってる。赤界から始まって、その次は青緑界に現れて、その次は橙界、青紫界、黄界、って続くのよね」 「……待った」  挙手と共に遮られる。 「順番は知らない。ついでに言うと、二十五年周期だっていうのも、定説であって確認されたわけじゃない」  そう言われると自信がなくなる。 「赤、青緑、橙、……次が何だって、青紫?」 「うん。その次が黄界……で、その次が多分、赤紫界、かな……」 「……ふうん」  法則性をみつけたのか、口元に指を置き、興味深げに目を細める。が、華鈴が取り残された気持ちになる前に、今考えることじゃないなと肩を竦めた。 「いきなり襤褸が出たな。別に全てを把握してるわけじゃないんだ。務めてきたといっても、聖姫と違って単純に家業にすぎない」  橙界の聖姫に呼びかけて導く。緑界の聖姫の召喚に応じて、馳せ参じて戦う。赤紫界の聖姫に修行の場を提供する。  宿命を負っているわけではない。運命に指名されたわけではない。先祖が自主的に始めたことを、代々受け継いできただけだ。そうした家に生まれついたことが、運命だと言うなら言えるけれども。  両親が仕事で世界中を飛び回っていて、家に帰っても大抵は一人きりだということは聞いていた。両親がそうした職業を選択したのは、聖姫が現れたときに接触しやすいようにという配慮であったという。聖姫がどこに現れるものかは、その補佐役を自ら任じてきた一族にもわからないのだ。まさか俺の友達にいるとは思わないし、と少年は苦笑した。 「はっきりとは伝わってないけど、始めたのはかつての聖姫かその仲間だったんじゃないかと思う。何せ、それぞれの世界では、三百年に一度のことだからさ。聖姫が聖姫として目覚めても、どうしていいかわからないだろう」 「……うん」 「将来の聖姫が同じことで困らないように、味方や導き手を用意しておいたんじゃないかと――まあ、推測だけどな」  すぐ話さなくて悪かった、流石に驚いたものだから、と詫びられて首を振る。思い返せば、色々と訊いてきたのは主に刃と澄夜だった。誠はそれどころではなかったのだろう。 「何か……不思議な感じ。自分でも、お伽話みたいなこと言ってるって、思ってたのに」  その出現に備えて職業を選択するほど、聖姫を真面目に扱う者がいるとは。  現実であることを認められた気がした。自分の確信など、妄想と区別がつかない。 「俺らの方も助かるよ。無事にみつけられたとしても、信用してもらえるとは限らないだろう」  見知らぬ人間が近づいてきて味方だと称したときに、あらそう心強いわ、と即座に言える者は少数派であろう。そうした苦労もあるのかと目を瞬く。 「頑張れ、とは言いにくいけどな。独りで抱えることはない」 「……うん」  聖姫は魔姫を退治するのだ。――殺すのだ。  魔姫を討てるのは聖姫のみ。魔姫から世界を守れるのは聖姫のみ。そう、放っておけば魔姫は世界を危機に陥れるのである。さらに大勢が殺されたり、一度は助かった者が次には死んだり、重要な技術や教訓が消え去ったり。法の裁きに委ねたのでは、きっと終わらない。脱獄の前例が示すように、より酷い結果をもたらしかねない。  だからこそ、聖姫たちは自ら手を汚してきた。法治の世界にあって、なお。 「なんで、魔姫が必ずいて……聖姫じゃないと、止められないのかな」 「聖姫にもわからないことらしいな。記録が一切ない」  わかれば手の打ちようもあるだろうに、と誠は嘆息した。それから、これを言っておかなくてはと気がついたように向き直る。 「わかることがあったら教えてくれ。俺の言うことと矛盾していても気にするな」  聖姫を補佐する一族の有する、記録や推測や仮説の海と、聖姫の認識とに齟齬があったなら、正しいのは後者だろうから。そう丁寧に言い添える辺り、少年は少女のことをよく理解していると見えた。

 部室にはまだ誰も来ていなかった。昨日の今日では顔を合わせにくいのかもしれない。誠の保証は心強かったけれども、あとの三人がどう思っているかと考えると、やはり、不安になる。  きぃ、と扉が開いた。誠だろうかと期待したのは無理のないことだったろう。愛花であったことに幾分がっかりしたのは、そうはいっても勝手だろうが。 「……今日は誰も来ないかと思った」 「少なくとも刃は来ないわね。帰るとこ、見たわ」  鞄を机に置いて、開ける。そのまましばし、動きを止めた。先ほどから目を合わせないことに気づいて、胸が痛くなる。 「――昨日の話。あなたが、聖姫だって――本当なの」 「本当だよ」  昨日よりもきっぱりと、言える。おかしな話だ。自分自身は最初から確信していたというのに。  そう、と目を落としたまま呟いて、愛花は向き直った。その右手は一本の包丁をしっかと握っていた。  数秒、事態を把握できなかった。愛花が自分と扉との間にいること、その横をすばやく通り抜けて逃げられるほど部室が広くないことを、けれども頭のどこかでは冷静に認識していた。 「今回の魔姫、あたしなの」  麻痺したような世界の中に、その数語は神託のように下りてきた。 「殺されるしかないなんてごめんだわ。認めない」  ……自分の泣き言を、では、どんな気持ちで聞いていた?  殺さなければならないという泣き言を、──殺されなければならない立場の者が。  昨日、あの告白の後で、愛花が何かを言ってきた記憶はない。いや、もっと前、伝説に言及したところから、口を利いていなかった。……いや、それも違う。その伝説がどうかしたかとバトンを戻してきたのが愛花だった。自身が魔姫であるのなら、それは気になる話題であったろう。  自分のことでいっぱいいっぱいだった。周りに気を配る余裕などなかった。それなら仕方ないと、大目に見てくれる者はいるかもしれない。自分以上に酷な目に曝されているのでなければ。けれども、相手こそ、余裕がないのであれば。  氷の向こうに炎がちらついているようなまなざしが、まっすぐに華鈴を縫い止める。一歩、また一歩と近づいてくるのを、それが何を意味するのか理解していながら、みつめることしかできなかった。  どうすればよいのか、わからない。泣けばよいのか。謝ればよいのか。訴えればよいのか。魔姫が聖姫を殺すことは、果たして可能なのであろうかという疑問さえ、浮かばなかった。  目の前まで来た。呆然と、見上げる。 「愛、花……」  声が震えて、体も震えていることを悟る。懇願の、それとも絶望の響きに、見慣れた顔が見慣れぬ感情に歪んだ。  懇願したいのは愛花だろう。絶望しそうなのは愛花だろう。たったの一言で、名を呼んだだけで、ここまで――傷つけてしまうのだと、悟ればもう何も言えなかった。  瞬きもせず聖姫を見据えて、魔姫は包丁を振り上げた。

* * * * * *

「また何か言われたの?」  的中したことは驚くに当たらない。家庭の事情――母親が逃げたこと、華鈴を連れて逃げなかったことで、一部の女子からあれこれ言われるのは初めてではなかった。 「殴りに行くとか言うのやめてね?」 「いいわ。黙って殴る」 「駄目だって」 「じゃ、蹴りを入れに」 「愛花」  少し強く、たしなめる。尤も、本気で暴力に訴えるつもりはないだろう。口では過激なことを言うけれども、その代わり口だけで済ませる性質だ。 「それじゃ愛花が怒られるでしょう。怪我なんかさせたら大変だし」  わかっているけれど釘は刺しておく。それから目を落として、しばし迷った後に付け加えた。 「ママがわたしを連れていってくれなかったのは、本当だもの」  見捨てるような夫の元に、自分も置いていった。自分も見捨てていった。その事実は昔から、漬物石のように胸を押さえつけている。つまらぬ悪口と聞き流せないのも、昨日や今日に始まったことではないのだ。  愛花は華鈴の頭に手を置くと、一呼吸置いてからぐしゃぐしゃと掻き回した。 「きゃ」 「あんたは自分が悪くないことでも反省するんだから」  慰めるというより実際呆れた風だったが、苛立った様子はなかった。目が合えば、仕方のないやつだという顔で、けれども笑む。華鈴も釣られて微笑した。  口に出せば否定してくれる。だから、口に出すようになった。――否定してほしいと思えるようになった。 「さー行こ。澄夜が新刊持ってくるって言ってた」 「最初は刃に譲ろうよ。本の方で楽しみにしてるの珍しいもの」 「漫画じゃないったってラノベだけどねえ。誠が嘆いてんじゃないの」  部室棟へ向かう足取りは軽かった。このときの二人は間違いなく味方だったので。


1.誠への問い:図書室で魔姫に関わる文献を探しますか? 2.愛花への問い:思い留まりますか? 1.Yes/2.No 1.No/2.No 1.Yes/2.Yes 1.No/2.Yes

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