聖女のあゆみ魔女のあしあと

3.Friend

 体力よりも魔力よりも、精神が限界に近づいている。時間が経つほどに頭が回らなくなる。もっと賢く立ち回れるはずだったとしても、最善手を検討している余裕などない。  初めて人目を憚らずに魔姫の力を使って、車を飛び越え、襲撃者たちを吹き飛ばして逃げた。そのまま一気に逃げ切れればよかったのだけれど、二台目の車が突っ込んできて、一方通行の道に逃げ込めば第二陣の集団が現れて、そこからどうやって抜け出したかは正直覚えていない。振り切ったりみつかったり、引き離したり近づかれたり、繰り返しでいっかな終わらない。  魔力を使えば疲れる。走れば疲れる。焦れば上手くいかない。ワープぐらいできないのかと内心で自分を罵倒して、立ち止まって落ち着いてゆっくり手順を踏んでいけばできそうな気がして一層苛立ちが増す。実質的にはできないということだ。  高校周辺の地理など知らない。自分の使うバス停と、高校から見えるコンビニと、後は数えるほどしか使ったことのない駅がわかるかもしれないという程度である。盲滅法に走って、走って、走って──。  行き止まりに出た。  一秒ばかり呆然とブロック塀を見上げ、慌てて今来た道へ向き直れば、十人ばかりの追っ手が退路を塞いでいる。多少の距離はあるものの、途中に曲がり角はない。最初に見た自動車が、その後ろに滑り込んで停まった。  今度こそは逃がすまいとばかり、向こうも慎重に出方を窺っている様子だが、この人数をどうしたら躱しきれるだろうと愛花は絶望的な気持ちになった。追いつめられたからと言って、使い慣れてなどいない能力を、突然巧みに操れるようになるわけでは――。 「愛花! 来いっ!」  どこからか叫ぶ声がした。  どこから。真上から?  一瞬だけ、というつもりで首をひねりかけたとき、斜め後ろの上方、ブロック塀の上辺りから、炎の塊が一直線に飛び出した。追っ手のただ中に飛び込んで、尤も周りが飛び退いたので焼くことはなかったが、蹴散らすようにしてからひゅんと戻ってくる。愛花の傍らに来て、人の姿に変わった。 「じ、ん?」 「つかまってろ!」  そう言いながら手首をつかむので、どこをつかみ返せというのかと困惑した次の瞬間。  ぐるりの屋根が全て足より下になる高さまで、舞い上がっていた。 「え、──は!?」 「っていうかおまえもできんじゃねえのかこんぐらい!」 「はあ!? 嘘でしょ!」  逃げるぞ、と少年が空を蹴る。下の様子など窺わず、二人は風を切って飛んだ。

「料理上手いなんて知らなかったんだけど」  手際よく玉葱を切っていく友人を、愛花は勝手の違うような心持ちで眺めた。 「俺の『刃』は包丁の刃だろ」 「だろ、って」 「……ああ、あんとき愛花いなかったわ」  誰かとそんな話をしたことがあるらしい。 「まあ、自分で作らなきゃ誰が作んだって話で」  家庭事情を仄めかすようなことを言って終わらせてしまった。幾ら道具が揃っていたといっても、今は寧ろ出来合いを買ってきた方がよかったのではないかと思うけれど。  刃に連れてこられたのは、刃の伯父の所有であるというコテージであった。いや、伯父の知人の所有であったろうか。伯父の、であれば遠からずみつかってしまいそうだ。刃にとっても計画的な行動ではなかったようで、伯父に電話で助けを求めた結果、とりあえずここに隠れろと言われたらしい。流石にと言おうか、最後まで空を飛んできたわけではなく、割合に早い段階で地上に降りて、電車と新幹線を乗り継いだ。鍵は愛花が開けた。魔姫には容易いことだった。  自分は魔姫の味方なのだ──武器なのだと、刃は告げた。但し、青界の。青界の魔姫に召喚されれば、炎にでも剣にでも変身して馳せ参じるのだという。誠の身内のように一族挙げて後援に当たるわけではないが、そのための変身能力を受け継いだ者には、そうした事情も伝えられていく。青界に魔姫が現れるのは三百年に一度であるから、多くの世代は出番が回ってこないことになるが。  不足はあるかもしれないものの、魔姫の事情も幾らかは一緒に伝わっている。運命に指名されること、討たれるまでが儀式であること、望むと望まざるとに拘わらず悪事を働いて殺されなければならないこと。討伐のための訓練を積んでいく華鈴に、積ませていく誠に、そこに疑問を差し挟まない愛花や澄夜に、だから刃は苛立ちを覚えていたのだ。そのときはまだどこの誰とも気づいていなかった魔姫のために、憤りを覚えていたのだ。  だが、やがて、感づいた。愛花の言動からだという。刃が正にそうであるように、魔姫に肩入れしている節が見受けられるようになってきたと。刃と同じく何らかの形でどこかの魔姫と関わるのかもしれない。華鈴が聖姫であったかのように、身近にいる他の誰かが魔姫であったのかもしれない。そうした推測と並んで、本人かもしれない、という考えも当然のように浮かんだわけだ。  単純に、見抜かれた、ということである。焦ったけれども、言われてみれば全く覚えがないわけでもなかった。三人に対しては隠し通す努力を怠っていたかもしれないのだ。明かしたいと、泣きつきたいと、助けてほしいという願いが捨て切れなくて、思わせぶりなことを口走っていた可能性はある。 「誠も気づいてたんだな」  刃は呟いた。俺がわかったぐらいだしな、と付け加えたのは謙遜か自嘲か。 「そう思う?」 「誠が知らせたんだろ。じゃなくてなんでわかるんだよ、あいつらに」  顔つきが険しくなる。 「呼ばれてたんだ、誠に。話があるっつってよ。そしたら──おまえ、テレパシーとか使った?」 「え? ど、どうだろ?」  誰か助けて、とは心の中で叫んだかもしれない。  声が聞こえた気がしたのだ、という。何か起こっているのかと探って、追われている愛花をみつけて、事を悟って、駆けつけたのだ。青界の魔姫のために用意された能力を流用して。  誠の用件もこのことだったのかもしれない。魔姫は愛花であったこと、聖姫たる華鈴に討たせなければならないことを、告げるつもりだったのかもしれない。学校では、自分や華鈴の前では、話せなかったこと。 「……よかったの?」 「何が」 「こんながっつりあたしに味方して。家……はどうでもいいのかもしれないけど、学校とか、どうすんのよ」  週明けまでに事態が収束するとは思えない。刃だけが素知らぬ顔で帰っていくわけにもいくまい。  包丁がトマトを真っ二つにして、俎板をかこんと鳴らした。 「俺は誠じゃねえから」  きつい表情が目に浮かぶようだ。 「あいつとは違うから」  包丁持っててそのトーンは怖いよ。  声を荒らげるところなら、そう見慣れないわけでもない。静かな怒りというものは、珍しい。初めて見るかもしれない。  ……本当に誠が知らせたのだろうか。  そんなはずがない、と主張したいのではない。刃の言うように、誠が関わっていないなら、どうしてあの集団に知られたのかわからない。  大体、見逃してくれるだろうと期待できるようであれば、もっと早くに伝えている。誠は魔姫に容赦するまいと、打ち明けることはできないと、判断したからずっと口を噤んでいたのだ。いや、噤みきれてはいなかったようだが。  けれども、誠の差し金であるという仮定も、すっと入ってこないのだ。受け入れたくないだけのことだろうか? 友人が、友人と信じていた者が、自分を見捨てたことを。 「……包丁は料理のためのもの。カッターは工作のためのもの。アイスピックは氷を割るためのもの」  刃の言葉が口を衝いて、半ば無意識に先が続いた。 「剣は。人を殺すためのものよね。殺したり、傷つけたり、脅したり。人を殺したいっていう意志そのもの」  目が痛くなったと思ったら、瞬きが思いの外に大粒の涙を落とした。頬を伝う感触に、煽られるように体が熱くなる。 「……魔姫が剣だったらどうしよう」  運命だの儀式だのというのが、自分で自分を誤魔化すための思い込みであったら。自分が原因だとは、自分が悪いとは、人は考えたがらないものだ。押しつけられたと、望んでいないと、他の何かのせいだから仕方ないのだということにして、心置きなく悪事を働きたいための、自分を騙す偽りであったら。自分は悪くない、という免罪符は、自分に対して非常に有効だ。 「本質的に害悪そのものだったらどうしよう」 「被害者だろ。魔姫は」  遮られた。材料を刻む手が止まっていた。 「人間だろ、ただの。だからわざわざ、悪の象徴になるために、あれこれしなきゃいけないんだろうよ」  目を瞬く。背中をみつめた。  刃が振り返る。固くはあったが、微笑した。 「ここの図書館、魔姫の本が多いんだってよ。昔の、ここいら出身の作家で、魔姫の小説書いたやつがいた関係で。俺の先祖の親戚なんだって。能力が遺伝しなかったやつ」  能力は遺伝によるが、知識はそうではない。魔姫の事情を知った者の中には、気の毒に感じるだけでなく、助けてやりたいと思うだけでなく、実際に行動を起こした者もいたのである。長い長い歴史の中で、数えるほどでしかなかったかもしれないが、救おうと挑んだ者たちが。武器として身を差し出しさえすればよい青界の魔姫であろうと、本来は関わる必要のない赤橙界の魔姫であろうと。  儀式から逃れる方法を探して。かつて同じことを試みた者がいないかと調べて。いつか同じことを望む者のために残して。細々と、しばしば途切れながら、遅々としながらも進んできた研究の成果を、この地の図書館は集めているという。その作家に注目してそうした企画を立てたのも、魔姫の事情を知る者であったのかもしれない。 「だからさ、そこ行って調べてみようぜ、何かやりようないか。助かる方法みつかってるかもしれないだろ」 「……だったら刃が、じゃない、伯父さんが知ってんじゃないの」 「別に関係者全員繋がってるわけじゃねえもん」  愛花は手の甲で涙をぬぐった。  事情を知っているといっても、実際にはどこまでわかっているものだろう。魔姫が聖姫に討たれ損ねたら、どういうことになるか。儀式を完遂しなかったら、否、決められた通りに実行しなかったら、世界がどうなってしまうものか。  知識はあっても実感が伴うわけではないから、逃れられるかもしれないと考えられるのだろう。尤も愛花とて、実感があるわけではない。実感と錯覚しそうな、――何だろう、確信をもたらす何か。  ──何だろう。  何なのだろう? 「信用してねえな?」 「あ、ううん、そういうことじゃなくて」  眉を寄せる刃に、慌てて手を振る。 「うん、行ってみるわ。あたしだって」  口にしようとした言葉に、口にする前に気づいて躊躇う。 「──死にたく、ないもの」  先手を打ってやろうと、一度は華鈴を狙ったほどだ。世界がどうなろうと知ったことかと、自分が犠牲になるしかないなど認めるものかと、自棄があったとはいえ、あのときは思えた。  声が弱くなったのは自分でもわかったし、顔つきも心細げになったのだろう。しばらく迷うようにしてから、刃は両腕を愛花の体に回した。抱いた、と言うには遠慮がちだったが、愛花は払わずに目を閉じた。  あのときと違って、今は味方がいる。

 昼休みに教室を覗くと、華鈴はいなかった。  部室に行ってみると机に突っ伏していて、しかしドアの開く気配に飛び起きて振り返った、らしい。澄夜の目に映ったときには、その顔が失望に染まるところだった。申し訳なさそうな色が、それから上ってくる。 「ごめん。一人になりたかったんなら、行くけど」 「ううん。澄夜なら、いい」  弱く握った拳を机に並べて、そこへ華鈴は目を落とした。隣りの机には一応弁当が置いてあったが、手つかずどころか袋を開けてもいない。そちらの机の前に、澄夜は座った。 「愛花と刃が、来ないかなと思って。ここに帰ってこないかなって……」 「うん」  察しはついていた。だからここに来てみたのである。  事が起こった土曜日には、澄夜は誠に呼び出されていた。けれども急用が入ったと詫びのメールが届いて、誠らしくもない、何があったのだろうと純粋に心配しながら、同じく呼ばれていた刃と、折角だから遊びに行くかなどと呑気に考えた。待ち合わせ場所は高校の近く、つまり澄夜にとっては自宅から歩いて行かれる場所で、さほど迷惑には感じなかったので。  だが、刃にメールを送っても反応はなく。後になってもう一度、今からでも話せないかと、誠から連絡があって。今度は華鈴が、一緒に呼ばれていて。  事の次第を、そうして知った。  愛花が魔姫であることは、華鈴には既知であったらしい。慎重に、言葉を探して、気を遣いながら誠がそのことを告げたとき、その顔を染めたのは秘密を暴かれた絶望だった。黙っていたことを誠は咎めず、隠し事は苦手だろうと寧ろいたわったのだけれども。  魔姫の力や聖姫の力は、他に類のない唯一無二のもの、だという。それらをセンサーのように感知する仕組みがあって、しかしそれは赤橙界全体を常時見張れるほど高性能ではなかった。運悪くそれが稼働しているときに、運悪くそれが観測していた範囲の中で、愛花はその力を行使したわけである。一番運が悪かったのは、それをみつけたのが言うなれば過激派の人間であったことだ。みつけて、調べて、誠と華鈴の友人らしいとわかると、二人は信用できないからと、自分たちで手を下そうとした。  誠の言う『身内』がどのような体制になっているのかはよくわからないが、ともあれ過激派の行動は内部で問題にはなって、勝手なことをするなと釘を刺されはしたらしい。だが、所詮は幾つかの家の、親戚同士の集まりに過ぎない。従わずにはいられないほどの権威があるわけでもなければ、資格を停止したり剥奪したりするような形で処罰できるわけでもないし、れっきとした誘拐未遂であろうに警察に突き出さない程度には甘かった。そもそも魔姫の討伐自体は推奨しているのである。 「もう、ここで愛花と会えることは、ないのかな……」  悲痛な呟きに、澄夜は両手をそっと重ねた。 「愛花が──魔姫がどこにいるか、わかったりしないの?」  聖姫は首を振った。 「テレパシーで話しかけたりとかは?」 「テレパシーでもメールでも、応えてもらえなかったら同じよ」 「メールは見てもらえなかったらそれまでだけど、テレパシーなら聞かせるところまではできるでしょ?」  そう言ってから笑って、テレパシーの何を知ってるんだって感じだね、と付け加える。釣られるように華鈴も少しだけ唇の端を上げたが、長続きしなかった。当事者でも関係者でもない自分には大したこともできないだろうに、気分を上向かせることすら覚束ないとは情けなかったけれども、とはいえそれを華鈴の前で顔に出すわけにはいかない。  気懸かりなのは無論、華鈴ばかりではない。愛花も刃も、誠もだ。が、愛花と刃は手の届かないどこかへ行ってしまった。誠には華鈴といてやってくれと頼まれている――放課後は身内と話があるようですぐに帰ってしまうし、かといって廊下や教室では周りの耳があるから迂闊なことは口にできない。誠の方こそ大丈夫だろうかと案じたものの、長く話している時間はなかった。どちらも教室移動のない休み時間に、こちらは二時間連続の教室移動で空になっている、華鈴のクラスの前の廊下で、周りを気にしながら一言二言交わした程度だったから。  魔姫は見逃せないと、誠は言ってきたのだ。華鈴を支えようとしながらも、そこは揺るぎないものとしてきたのだ。その魔姫は愛花であるかもしれないと感づき始めたとき、華鈴がそれを知っていたとわかったとき、愛花と刃が何も打ち明けなかった理由を考えたとき、どんなに堪えたことかと思う。  愛花かもしれないと考えついた時点で、もしも魔姫が知り合いであったら、華鈴の説得は自分に任せてほしいとは頼んではおいたらしい。確かに説得の部分は任されたけれど。 「……大丈夫だよ。愛花を助けたのは刃じゃない」  半ば自分に言い聞かせるように、澄夜は呟いた。 「誠みたいに色々知ってるわけじゃなくても、愛花や華鈴みたいに特別な力があるわけじゃなくても、刃は愛花を助けられたじゃない。みんなでやったら何とかなるよ」  自分にもできることはあるはずなのだ。愛花のためにも、華鈴のためにも。  刃が青界の魔姫に関わることを二人は知らなかったし、炎に変じたことや空を飛んだことも伝わっていなかった。事実と照らし合わせれば、多少的を外していたことになるが。 「ね、考えよう。どうしたらいいか」 「ん……」 「食べなくちゃ頭回らないよ?」  弁当袋を押しやって、冗談めかしつつも促す。華鈴はのろのろと、けれども口を解いた。

 図書館はなかなか大きかった。『地域資料』とある棚の横に、この地域出身の小説家の作品や、小説家に限らない有名人の伝記や研究書が集まっている。 「これ。本当?」 「俺に訊くなよ」  愛花と刃は一冊の本を一緒に覗き込んでいた。  副題に『もう一人の魔姫』とあったので手に取ったのだが、魔姫の小説を書いたという例の作家の、魔姫が登場しない作品に関する研究だった。主人公の王女は結局のところ魔姫をモデルにしているのであろうというものだ。生け贄に選ばれる点からしても、生け贄に手を下すのがやはり少女である点からしても、その他諸々の共通点からしても。  問題はその先である。最終的に王女は国外に逃亡して生き延び、生け贄を捧げなくとも国は保たれた。これもまた魔姫を下敷きにしているのだとすれば、魔姫にも生き延びる道はあったことになる、というのだ。 「逃げるって。異界にって」 「そりゃ、魔姫は世界単位でいるものだわ、ね」  国のための生け贄であった王女が国の外へ逃げたなら、世界のための生け贄である魔姫はその世界の外へ。即ち、異界へ。そう書いてある。刃と話が通じるのだから、自分の妄想ではない。  なるほど、赤橙界の魔姫であるなら、赤橙界のどこに行こうとも逃げたことにはなるまい。だが、刃の話を聞くに、少なくとも青界の魔姫は、赤橙界とも関わりを持っている。誠の話を思い返せば、橙界や緑界や赤紫界の聖姫もそうだったはずだ。異界ならば無関係と決まったわけでもないのではなかろうか? 「けど、確かに、異界まで追っかけてくるやつなんて早々いないよな。ってか、異界に逃げたなんて普通わかんねえよな」 「いや、人の目だけ誤魔化せたって意味ないんだけど……あ」  仮説を提示して終わりではない、著者はその先を調べている。──異界から赤橙界へ、移り住んだ魔姫がいることをつきとめている。その時期に、その魔姫が元いた異界で、悪人が捕まらずに逃げおおせることが急増したような記録は特にないという。赤橙界の方にも、それを機に異界から悪人が流入してくるようになった、というような痕跡は別段見当たらない。そうした例を、三人分、みつけている。先の疑問に対する、直接的な回答ではないが。  死なずとも、『この世』からいなくなれば、儀式の要件は満たせるのではないか。  それが著者の結論であった。  小説や作家の研究からは逸脱していよう。紛れ込ませるようにこんなところで論じているのは、誠の身内のような勢力にみつかると、妨害される可能性があるからだろうか。 「つっても、異界に行くとか──あ、青界なら行けんのかな、俺」  口元に片手をやって、刃が考え込む。青界の魔姫に召喚されれば駆けつける身なのだ。 「向こうから呼ばれなきゃ行けないのかもしれないけど。向こうに言われなくたって、化ける方はできるわけだし」 「それってあたしも一緒に行けるの?」 「あ、駄目か」  そこまでとんとん拍子には行かなかった。とは、いえ。  これが逃げ道になるのだとすれば。これで掻い潜れるのだとすれば。儀式の要件を満たせるのだとすれば。  実感が湧かない。いや、違う、信じきれない。それも違う、戸惑いの方が大きいのだ。こんなに簡単にみつかってよいものだろうか。簡単? いや、この本に辿り着くまで随分かかったはかかったのだけれど。  内なる声は──自分が魔姫であると、聖姫に討たれる他ないと、役割を果たさなければ世界がどうなってしまうかと、脅すように囁いてくる何かは、今は何と言っている? 本能のような警告が、制止の声を上げないだろうか? 「ていうか、この、逃げてきた三人の話って本当なの? そのせいで悪いことにもなってないっていう」 「──魔姫事典! 載ってんじゃね?」  刃が手を打った。ああ! と愛花も真似るように手を叩いたが、見回してもそこまで分厚い本は目に入らない。パソコンを探して検索してみれば、この図書館にはないとわかった。取り寄せはできるが利用者登録が必要だ。  こんな広いのに、とぼやいて検索結果を睨む。高校の図書室という、予算も置ける冊数も置いてよいジャンルも限られるところにあったものが、ないとは。  ――そうだ。高校には、ある。 「華鈴に、見てもらう?」 「華鈴に?」 「あの子はあたしの味方だもの」  不意に喧嘩を売るような固い声になったのは、誠のことが頭をよぎったためである。誠に対する刃の不信が、と言うべきか。 「ていうか、そうじゃん。華鈴に手出してもらわなきゃいけないんだわ」  聖姫が何かしら関わらなければ『正義が悪を追った』ことにはなるまい。  携帯電話を取り出した。電源は基本的に落としている。節約ではない、充電器は刃が買ってきた。メールや通話の数多い着信を見たくないのである。……見たくないのに、誠や華鈴や澄夜からのメールは、つい、時折、開いてしまう。返信したのは一通きり、華鈴に生存を伝えたのみだけれど。  心配している。話したい。会いたい。どれも友人らしい文面だ。隠していたな、騙したな、探し出してやる、逃がさない、といった敵対的な言葉はない。メールにすぎないのだから幾らでも繕えるだろうと割り引こうとしても、そのまま素直に受け取りたくなる。  今も、つい、見てしまった。開いてしまった。 「……誠からメール来てる」  君に監視をつけて、華鈴との約束を破ったら即座に押さえる、ということで妥協してもいいという意見が出た。最善とは思わないが、これ以上のことは引き出せそうにない。  俺たちは単なる自警団だ。法律にも運命にもそんな権限は与えられていない。  こちらから襲ったことを棚に上げて、逃げた君を疑っている者もいる。  信じてほしいとは言わない。俺自身にも彼らを信じる理由はない。  そうした内容が、さほど整った文面でもなく、並んでいる。丁寧に推敲している余裕は向こうにもないのだろう。 「俺の方にも来てるわ」  こちらも携帯電話を調べて、刃が顔をしかめる。 「同じこと?」 「親戚とか、普段から付き合いがあるやつの家にいないだろうな、って。だったら調べられたらすぐバレるからって」  あいつらに先にみつけられたらヤバいんだからな、とあるのは、あのとき襲ってきた者たちを指しているのだろう。 「……やっぱり、誠が教えたわけじゃないのかな?」 「そう思うか?」 「そう思ってるのかそう思いたいのかわかんないわ」  自分が悪いとは思いたくないように、友人が悪いとも思いたくないものだ。  会って話したいと誠は書いてきた。刃の方には、愛花と会わせるのが心配ならまずは刃だけでもよいとあった。懇願するような調子にこそならないものの、何をどれほど譲歩してでもそれだけはという、鉄の意志が窺える。  二人は顔を見合わせた。刃が瞬時に切り捨てなかったことは、愛花には少しほっとすることではあったものの。  応じたものだろうか。  ──信じたものだろうか?

 借り出してきた事典を、華鈴は必死にめくっていた。当たりをつけたところにはみつからなかったから、虱潰しに捜すしかない。  異界へと去らせることで、討伐に代えられるかもしれない。前例が三件、あるらしい。愛花と刃が探し出した救いの糸を、何としても最後まで手繰るのだ。学校で、部室で、顔を合わせることは、永遠になくなってしまうとしても。  どうすれば、『聖姫が魔姫を』この世界から追い払ったことにできる。どうすれば儀式を成立させられる。成功した三人はどのようにした? 根本的な仕組みがわからないから、試すか倣うかしかない。  この発見と重なったのは偶然だけれども、誠は二人に接触しようとしている。澄夜は異界との往来という切り口から調べているはずだ。自分だけのんびり落ち込んでいる暇などない。  携帯電話が鳴った。すわ愛花か、と飛びつくようにして開けば、そうではなくて澄夜からの着信だった。とはいえがっかりするところではない。 「何かわかった!?」 〔違うの、華鈴、華鈴お願い、愛花を止めて〕  思いがけない言葉が耳に飛び込んできた。 「……何があっ」 〔バレたの。誠の、あの、あのときの人たちに〕  遮ったというよりも、そもそもほとんど聞いていないのだろう。  言わんとすることを察して、華鈴は血の気が引くのを感じた。冷水を浴びたように、神経の昂りは鎮まったかもしれないが。 〔愛花と刃を止めて、誠が言ったとこに来ないように言って! メールなんていつ見るかわからないんだから!〕 「誠は?」 〔誠のことは後!〕  言いそびれただけで、メールだけでなく電話もかけてみたのだろうし、繋がらなかったのだろう。慌ただしく、電話は切れた。震える手で、華鈴も切った。  届くだろうか。愛花が応えてくれなければわからない。聞こえていないのか、聞こえて無視しているのか、こちらからは判断できない。  では、居場所をつかめないか。自分が飛んでいくことはできないか。既に何度も試したけれど、本当に全力で挑んでいたとは言い切れない。死に物狂いでかかってはいない。そのために倒れでもしなければ、もっと頑張れた可能性を否定することはできないのだ。  自分の力不足にばかり意識の行っていた華鈴が、気づかないことが一つあった。  警告を伝えられず、愛花と刃が呼び出しに応じて、あのときの者たちに再び襲われたなら。誠に騙されたと思うに違いない。裏切られたと思うに違いない。  ──そこに思い至るのは、結果が出た後のことになる。

* * * * * *

 名は体を表すってやつだ、と評されたのは、粗暴な行動が多かった中学時代のことである。言ったのは他のクラスに来ていた教育実習生で、階段で鉢合わせたそのときまで接点はなかったはずだ。向こうは噂を聞いていたということなのだろうが、最初の対面でそんな風に攻撃される筋合いはないと思った。刃(やいば)は人を傷つけるためのものだ、おまえに似合いだな、と。  周りに他の生徒が見えた記憶はないが、階段ならば廊下よりも死角が多い。誰かに聞こえていたようで、その話は広まった。実習生への賛同と共に。  刃。人を傷つけるためのもの。人を傷つける存在たれという命名。  誠の耳には入っていたのだろうか。華鈴の口から? それとも、知らずに、自然に思ったのだろうか。 「さしずめ、おまえの『刃』は包丁の刃ってところか」  料理が好きだと話したときに、そんな反応が返ってきたのだ。 「何だって?」 「刃にも色々あるだろう。カッター、彫刻刀、肥後の守」 「ひご……?」 「ああ、悪い、難しかったな」 「てめ」  からかわれて歯を剥いて、そこからは実生活に必要のない知識の話に変わっていったのだが。  救われた気持ちになったのだ。引っかかっていた、引きずっていたという自覚さえなかったけれど、一度きりの接触で容赦なくぶつけられた批判は、意外に深く刺さっていたらしい。  刃物の全てが殺傷のためだけに存在するわけではない。  料理のための包丁ならば、刃の中では上々だ。


1.刃への問い:誠を信用しますか? 2.愛花への問い:誠を信用しますか? 1.Yes/2.No 1.No/2.No 1.Yes/2.Yes 1.No/2.Yes

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