血潮の福音

1

 一度霞んだ視界がはっきりしてくると、木々の並びは規則的になり、足元はきれいに刈り揃えた芝生になっていた。天然自然の森林でなく、自然公園なるものの内部だと聞いている。月明かりは幾分鈍いように感じた。大気が濁っているせいかもしれない。  ここが人間界。  公園内に道があるはずだった。ざっと見回しても、それらしいものは目に入らない。暗いせいか、ここが奥まっているのか。通行人にみつかっては困るのだから後者だろうか。尤も、夜を選んで移動したのだから、通りすがる者など──。  声を上げそうになったのは、木の下にくっきりと浮き上がる白いブラウス――否、佇む少女の姿を捉えたためである。遠さと暗さが相俟って、表情まではわからない。腕時計でも確かめるように、何もつけていない左手の付け根に目を落とし、右手をゆっくり、躊躇いがちに同じ高さまで上げる。きらと、右手に握った何かが月の雫を跳ね返した。  理解した瞬間、かっと頭に血が上った。少年は地面を蹴って突進した。 「何やってんだっ!」  驚いて全身で振り返った少女の、右の手首を力任せにつかむ。その手が持っていたのは鋭利な刃物であった。反対の手首を裂こうとしていたのだ、明らかに。 「ご──ごめんなさい」  口ごもりながら、少女は素直に謝った。それで怒気を殺がれてしまうと、途端に気まずくなって少年も言葉に詰まる。 「そうですよね。普通止めますよね」 「あ、いや」 「事情を知らない人が見たって、止めるものだってわかりますよね。何やってるんだろ、あたし」  手首を切るという行為に過剰反応したのであって、これが例えば首を括ろうとしていたのだったら、あんな剣幕で詰め寄りはしなかった。自覚があるから、少女の言葉にはむずむずした。  つかんだままだったことに気づいて手首を放す。自由になった右手を、少女は特にどうしようともしなかった。 「何か……あったのか?」  問うたのは何か言わねばと思ったためであって、心配したとか気にかけたとかいうわけではない。いや、気にならないわけではないのだが――いきなりこういうことになるとは無論思わなかったから、困惑の方が強かった。 「何もなくて」  俯いた少女の返事はこうだった。 「家族もいなくて、友達もいなくて。取り柄もなくて。……いる意味もないなって、思っちゃって」 「取り柄なんかない方がいい。誰も取り柄しか見なくなる」  目つきも声も尖ったことを自覚する。驚いたか怯えたか、少女が身を竦めたような気がした。  ……これは八つ当たりだ。この少女に言うことではない。  意識的に力を抜いて、呼吸を挟んで。柔らかくなるよう気をつけて、少年は口を開き直した。 「ちょうどいいや。──道を訊きたいんだけど」

 少女の導きで公園を出た。公園の中と外では、道の様子がなるほど大分違った。案内を得られたのはありがたいことだ。  住所を見せてここへ行きたいのだと告げれば、少女はしばし困ったようにしていた。従姉の住み処だと説明し、躊躇いがちに家出かと訊かれて、そういうことにしておいた。背負った荷物の大きさから推測したのかもしれない。本当は両親公認だけれども、あまり明かしてしまっては面倒になる。  間を持たせるのに適当な話題も特に持ち合わせていなかったし、少女の方もよく喋る性質(たち)ではないようで、二人の道行きはほとんど無言だった。沈黙を埋めるためだけに自殺未遂を蒸し返す気にはならなかったし、少女も家出について追及してはこなかった。道行きを長く感じるのはそのせいかと思っていたが。 「ここ……だと、思います」  五階建ての前で、少女は足を止めた。少年は目を円くする。 「ありがと」  メモにあったマンション名が掲示してあった。 「途中まででよかったのに。家、近いの?」 「そんなに、遠くは。ここまで来たら……」  口の中でもごもご言うからその先はよく聞こえなかったが、最後まで付き合った方がすっきりする程度には近所だということらしい。尤も実際のところは、単に切り上げどきをつかみそびれたのかもしれないが。 「助かったよ。あんたも帰り道気をつけて」 「……はい」  エントランスに入ってから、いっそここまで来てもらうべきだったろうかと思った。ガラスの扉が行く手を遮っている。前に立てば開くというものかと試したが、違うらしい。  ……入り口で部屋番号を押すのだとかいったか。  押す。  みつけるまでそう長くかかったわけではない。が、あの少女が見ていたなら、そもそもそれを探さねばならなかったことに不審を覚えただろう。  ボタンを押す指は迷わなかった。文字は、わかる。 〔はい〕 「俺だ」 〔はい?〕 「メルクリウス」 〔あ〕  合点の行った声になった。事前に話は行っているはずだ。 〔中の扉開けるから――自動で開くから、三階まで上がってきて〕  丁寧に言い直した通り、ガラスの扉が誰の手にもよらず左右に滑る。間を通り抜けてから、閉まるのも自動だろうかと一瞬考えたが、階段が目に入ったのでそちらへ向かう。背後の物音に振り返れば、扉はゆるゆると動いていて、元の位置へと見る間に戻った。  三階に上がれば、並んだドアの一つが開いて、こちらは一応見知った少女が顔を出していた。ほっとした気持ちで歩み寄る。失敗らしいことをやらかさずに――着いた。 「ごめん、声でわからなかった」 「そりゃ、おまえがこっち来たの何年前だよ」 「十歳のときよ。後々計算しやすいように」 「何だそれは」  促されて、上がる。靴を脱いだ後ろで、少女はドアを施錠したらしい。指さす奥へ向かえばリビングで、背中の荷物をやっと下ろせて少年はいささかほっとした。言うほど重いわけではないが、軽くはない。 「気分悪くない?」 「は?」 「こっち、空気悪いから。きつい人は慣れるまできついらしいの」 「ああ……まあ、大丈夫なんじゃん、俺らは」  体調不良とは縁遠い血である。まあねと少女も頷いた。 「じゃ、改めて」  ニッと唇を裂く。 「ようこそ人間界へ」

 悪魔――という言葉の発祥が、悪魔界なのか人間界なのかはわかっていない。悪魔と接した人間たちが取り入れたのかもしれないし、人間と接した悪魔たちが取り入れたのかもしれない。少なくとも現在、その言葉が主として指す内容にはずれがある。ひょっとしたら天使界が発祥で、だからあまりよくない字や意味を伴っているのかもしれなかったが、この説はあまり好まれない。  悪魔界に生まれ育ったメルクリウスは、れっきとした生物であって概念ではないし、属するのはこの世であってあの世ではない。天使とは敵対関係にあると言えるから、その点に限っては注文通りであるけれども、その天使だって人間が想像した天使とは違う。  人間にはない魔力を有していながら、人間に成り済ますことは容易だ。羽やら牙やらを隠しておくだけで、人間の多くは悪魔を見分けられないといい、紛れ込むのは難しくなかった。同様にして天使が紛れ込んでいることもあるらしいが、遭遇する確率など微々たるものだろう――悪魔界で自分を知る者に遭遇する確率に比べれば。  一族の中には人間界に移り住んだ者も少なくない。従姉のプロセルピナは六、七年前に一人で去ってしまった。当時は物足りなくなったように感じたものだけれど、だから今、急に転がり込めるわけである。 「三部屋あるのよ。あっちは寝室だから入るな。そのうちそっちを片づけるけど、今日はここで寝て」 「助かる」 「まーすぐに出てってもいいし、一緒に越してもいいが」  自分自身の転居を、プロセルピナはさらりと選択肢に入れた。  それから思い成しか、改まった顔つきになる。友人が泊まりにでも来たような、楽しそうですらあった調子が鳴りを潜めて、そうだよなとメルクリウスは手の中の湯飲みを握り締める――わけにはいかずに、指に力が入ったのを感じてテーブルに置いた。訊かれるよな、少なくとも一度は。 「急だったわね?」 「……だな。前から考えちゃいたけど、別に準備もしてなかったし」  いつかは自分もと漠然と思っていて、たまに勉強してはいたから、ある程度の知識はある。だが、悪魔界を去ろうと――別の世界にまで行ってしまおうと、決意したのはつい先日だ。両親は別れを惜しみながらも、きっとその方がいいと後押しをした。  かつて同じ判断をした従姉は、歯切れの悪さから大体のところを察したのだろうか。重ねては、問わなかった。 「あたし、明日は学校あるんだ。明後日からでいい、いろいろ」 「そうだったな」  聞いている。高等学校に通っているのだった。『高等学校』なんて物々しい、と何だか従姉は笑ったが。 「あと、人前では『藤堂冥火(とうどうめいか)』でお願い」  人間としての偽名である。地域にもよるだろうが、ここで『プロセルピナ』は通らない、らしい。 「あ、そだ、そっちは決めてあるの?」 「いや。どうせ明日は動けないだろうから考えてるわ」  無論『メルクリウス』も通らない。元はと言えば人間界の神話から来ている名前らしいが、国が違う。由来を調べてみたときには、自分には似合わないと苦笑したものだ。 「苗字同じの使っていい?」 「『藤堂』? いいよ。親戚だってわかりやすいし」  軽く頷いてから、はたと目を瞠る。 「わかりやすくていいの?」 「……ああ、そこまでナイーブにはなってない」  一族のことなど人間界では誰も知らない。  だったらいいよと、従姉はもう一度頷いた。

 一日置いた休日に、プロセルピナに連れられて外へ出た。必要なのは道よりも、人間に擬態するための案内である。見た目はそっくりだといっても、人間界での常識は身についていないから。 「信号は優先度高いと思う」 「青のときに渡るんだろ、知ってる」 「無視するやつもいるけどね。あと、ここは単純に狭いから、バスが通るときはちょっと危ない」  漫然と歩いているのではなく、一応あの自然公園を目指している。公園からマンションへ向かったときの道はわざわざ覚えておこうとしなかったけれど、プロセルピナが選んだ道筋があのときと異なっていることは何となくわかった。 「空気に慣れるまではこの公園によく来たらいいって言われた。緑があるからちょっとはマシだって。うちらに関係あるかわかんないけど」 「人目につかない場所に出られるってだけじゃなかったんだな」  悪魔界と人間界を繋ぐ一種の通路が、あの公園にこちら側の口を開けているのだ。  そこを通って夜を狙って、人間に見られないようにと気をつけていたのに、あの少女に出くわしたのだから驚いたのも道理である。決して暗がりに白い何かが浮かび上がっていたからではない。  少女の方も誰にもみつからない奥にまで入り込んだつもりだったのだろうし、そこで急に怒鳴りつけられればさぞや肝を潰したことだろう。  ……あの少女はどうしただろうか。 「ここからね。このボート池が公園のこっち端」  坂を下ったところで、プロセルピナはボート乗り場を指さした。 「……人目めっちゃあんじゃん」 「休日のこの辺はね」  乗り場の手前に幾組かあるテーブルと椅子はすっかり塞がっている。端の方に何台か並んでいるのが自動販売機というやつであったり、幟の立っているところが店だったりするのだろう、何かを飲み食いしている者もいた。  ここから広がる公園の一区画は、坂側の半分がすっかり池になっているのだった。細長いとは言わないまでも、正方形にはあまり近くない。水上にはシンプルなボートと、鳥を象った乗り物が動き回っている。  池の向こう側へ回れば、頭の上は梢になり、足の下は土になった。草木の間だからといって、意識できるほど明確に空気の味が変わるわけではない。散策やジョギングのために訪れている者が多いようで、子供連れも多く見受けられた。その割に混雑している印象がないのは、公園自体も広いから、他者との距離が近くなりすぎないからだろうか。花壇を前にした簡素なベンチも、座っているのは一つに一人で、埋まってはいないが空席もないという――。 「あ」  無意識に声を上げてしまった。あの少女が、いる。  花壇かその向こうの池かをぼんやり眺めていたらしい少女は、ほとんど意味もなければさほど大きくもなかった声を、それでも自分に宛てたものであると感じ取ったのだろう。ぴくっとして振り向いて、僅かに瞠目して固まった。  どうしてよいかと互いに戸惑う様子の二人に、一瞬だけきょとんとしたプロセルピナが助け船を出す。 「ああ、道を教えてくれたって子? 他に知り合いいないものね、こっちに」  説明的な言い方をしたのは故意なのだろう。 「ありがとね。こいつ日本に慣れてないんだけど、変なことなかった?」 「いえ、全然そんな」  全然、ということもなかったような気もするのだが、他人の言動に注意を払うどころではなかったかもしれないから、あるいは正直な感想かもしれない。あのときはありがとうございました、と口の中で告げたところから推すと、止められたことを恨んではいないらしい。  ……よかった。気になっていたから。……ちゃんと生きているかどうか。  少女は胸に手を当てて、はっきりそれとわかる深呼吸をした。 「佐藤かる、っていいます。人偏の佐に、植物の藤に、平仮名でかる」  名前であり、表記である――ということを、メルクリウスが理解するのは一拍遅れた。主に後半のせいで。 「あたしは藤堂冥火、『冥府』の『火』。藤堂のトウはフジね」  プロセルピナが応じる。表記の説明が咄嗟に出てこないメルクリウスは内心で手を合わせた。『藤』が同じ字だということには気がついた。 「こっちは司(つかさ)。従弟」 「おまえが紹介するのかよ」  実際にはありがたいのだが、対外的には呆れてみせるところだろう。 「『冥火』と『司』でいいよ。苗字じゃ一緒だしね」 「あ……あの、じゃあ、わたしも『かる』で」  それだけを言うのに、勇気を振り絞ったように見えた。

〈続〉

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