血潮の福音

2

「夕飯の買い物?」 「あいつは俺を何だと思ってんだ」 「いいよ、付き合うよ」  かるがくすくすと笑う。  一人では買い物もできないと、本当に思われているわけではない、メルクリウスが弁解したくなるだけだ。価格の相場はわからないし、加工食品のことも碌に知らないから、付き添いがいた方が心強いのは確かなのである。日本にいなかったのだというプロセルピナの方便が上手かったのか、少なくともかるには怪しまれていないようだった。  毎日ではないものの、毎日のようにメルクリウスはかると過ごした。他に何も当てがない。学校やアルバイトに挑むには、まだ、人間社会に慣れていなかった。  それはメルクリウス側の都合であるし、頼んだわけでも約束したわけでもなかったが、あの公園によく散策に来るのだと話していたかるは、あの花壇の水辺を訪れてみれば大抵そこにいた。公園を一緒に一周して、この景色も好きだとかここは人通りが少なくて落ち着くとか話した後は、あの水辺とは限らなくなったが、そのときの数ヶ所を巡ってみれば行き合えた。  懐いたようなものかもしれないし、止めてくれた、と恩や感謝を覚えているのかもしれない。家出だとざっくり誤魔化してある事情が気になっているのかもしれないが、それだけということはないだろう。  何もないと言った。家族も、友達も、取り柄も、と。  それゆえに死を選ぼうとしたぐらいだ。驚くには当たらない。 「嫌いなものって何かある?」 「言うほどは別に。あ、冥火は苦いの駄目だな」 「ああ、そうなんだ」  そうと知ればきちんと苦いものは避ける性格だから安心だ。好き嫌いはよくないと嘯いて苦いものを一品混ぜてくるようなことは、――かつての友人に、そういうことを楽しがるのが一人二人いた。そういうことを許すような仲だった。  脳裏によぎる姿を追い払って、メルクリウスはかるが指さした棚に目を向けた。  ……十分に、取り柄だ。  友人のいない原因は、単純に人見知りか引っ込み思案なのかもしれない。こうして自然に喋れるようになるまで、それだけのことに時間がかかったのだから。自分のような理由があるのでもなければ、そこまで根気よく付き合ってくれる相手はそう多くもあるまい。その壁を乗り越えて辿り着いた先には、立派な取り柄があったではないか。  ……メルクリウスには、複雑なことと感じられるのだけれども。

「かるのことあんまり知らないよね、うちら」 「そうか?」  目をぱちくりさせれば、知らんだろ、と従姉は呆れ顔になった。  放課後や休日にはプロセルピナが加わることもあった。自分とは段々と打ち解けてきている様子のかるが、従姉とは一気に親しくなっているようなのは少々不当な気もしたが、同性同士の気安さもあろうし、従姉の性格もあるのだろう。 「バイトしてないんでしょ。学校も行ってないし。施設にいるってわけでもないって言ってたし」  指を折って、首を傾げる。 「詮索したい感じで気になるんじゃないけど。客観的に、不思議がるところだろうなとは思うのよ。生活費の出所とか」 「ふうん?」  前半を疑う気にはならなかったが、後半を呑み込めたわけでもない。  何か言いかけてから、いいわ、と従姉は手を振った。 「おい」 「君はそこを訊かないから気楽なのかもしれんし。そっちこそって訊き返されたら困るだろうし」 「……あー」  人間界に移り住んだ悪魔たちの間には、互助組織と呼べるほどしっかりしたものかどうかは知らないが、自主的なネットワークができあがっている。プロセルピナが一人で暮らせていたのもそのバックアップがあるからだし、メルクリウスが人間として生活していくための手続き――つまるところ法律的なあれこれの偽造も、そこがまとめて請け負ってくれた。下手な人間より楽に生きられるよ、というのが従姉の評である。  その辺りの事情に、かるの方から深く突っ込んでくることはないだろうけれど。何気なく問われただけでも、メルクリウスの方で取り繕える気がしない。従姉が奇妙に感じていることも、自分はピンと来ていないわけだし。 「まあ、後からアクロバットな事情が発覚しても驚くなって話だ」 「アクロバットな事情にまで驚かねえ理由はねえよ」  事情そのものの意外性は別問題である。 「まあ、知ってる――」  言いかけたところで、ふと気づくことがあった。途切れたきり続く気配がなかったからか、どうした? とプロセルピナが促す。 「いや、知ってるかるで十分だ的なことを言おうとしたんだけど」 「熱烈だな」 「言われると思ったわ。じゃなくて」  目を落とす。 「かるだって、俺らのことを知らないんだなって」  悪魔であることを。  人間だ、と称したわけではないが。言葉の上で偽らずとも、あらゆる面で人間を装っている。  いや、藤堂司という名前は明確に嘘なのだった。あの少女はメルクリウスの、プロセルピナの名前すら知らない。 「『悪魔』だって言っても説明になんないしね」 「ああ、それもあるのか」 「そこを割り切れないと、こっちで暮らすのはきついよ」  苦笑したプロセルピナも、理解しかねるということはないようだった。気にならねえと思ってたんだけどな、とこちらも同じような笑いを返す。  全てを告げたら告げたで、悩ませることになるだろう。するりと受け留められる性格とは見えない。隠しておくことは一面では不誠実に当たろうが、かるのためにはその方がよいように思う。  ――そもそも、誰にも知られていない世界へ行きたかったのだ。 「かるはそれこそ、知ってるうちらで十分だって言いそうな気もするけどね」 「言えてる」  間を置かずに頷いて、頷ける幸いに微笑んだ。

 走っていた子供が目の前で転んで、メルクリウスは立ち竦んだ。  泣き出したところに母親が飛んでくる。なだめながら起こすのに背を向けてそそくさと離れたが、すりむいたらしい膝がちらと目に入った。  ややあって泣き声が激しくなる。振り向いてみると手洗い場に連れていかれていて、この距離と角度では見えなかったが、まあ、沁みるのだろう。 「子供、苦手?」 「子供?」  躊躇いがちに問われて目を瞬く。そこを取り上げられるとは――。  ……ああ、そうか。 「……怪我が」  呟いて、手を振る。かるが心配そうな顔になったが、それは誤解だ。誤解をさせた。血を見るのが苦手だとか、そういうことではなく。  近くに、と言うには歩くが、ベンチがあったことを思い出した。公園の奥まったところにあるから、人通りの少ない穴場だと聞いたし、実際、当てにしていたら塞がっていたということはなかったはずだ。  晴れて暖かで、気持ちのよい天気だから、散策には向いているのだけれど。――話の方が、向かない。  急に速足と言葉少なになったので、余計不安にさせただろうと思い至ったのは、案の定無人のそのベンチに辿り着いたときである。またすまないことを、……いや、まずは落ち着くことだ。 「あのさ、……変な話、していいか」  促して腰かけて、どう切り出したものか迷う。いつかは打ち明ける心積もりがあったわけではない。 「昔の……ってほどじゃないんだけど。……っつうか、こっちに来る……引っ越してくるちょっと前なんだけどな、本当は」  悪魔界にいた頃。――悪魔界を去ろうと、ついに心を決めた頃。  少女は膝の上に両手を重ねた。聞く体勢に入ったということで、息を一つ吐いて少年は続ける。 「友達とかに、……怪我をしたときは俺に頼ればいい、みたいに思われてて」  怪我をしたときは、メルクリウスの血に浸せば治る。  そういう血の持ち主だった。メルクリウスも、プロセルピナもだ。  全体的に悪魔は治癒や修復を苦手とし、破壊を得意とする傾向がある。天使は逆に、治癒や浄化に長けているという。癒しの血が天使でなく悪魔の中に現れたのは、似つかわしくない一方で理に適ったことでもあった。  癒しの血。血液そのものを指すことも、それを伝える血脈を指すこともある。切り傷や擦り傷は勿論、破損箇所が外に出ていない骨折でも打撲でも、その血に浸せばたちどころに癒える。その抜群の治癒効果を各地で求められるから、一族は各地に散らばっていた。  ――とまでは、明かせないだろう。 「手当てが上手いとか、詳しいとか、そういうわけじゃないんだけど……なんか、そういうことに……なってて。確かに、慣れてる方ではあったし、……その、どんな怪我でもってことじゃなくて、慣れてるやつだけは」  これで通るだろうか。……大分嘘が混ざったけれど。 「助けるのが嫌だったわけじゃないんだ。俺が近くにいてよかった、ってこともあった」  大怪我なら。傷つけられた被害者だったり、事故だったりするのなら。自分が一時の痛みに耐え、少しばかりの血を失い、たまに目眩を起こすぐらいで、死や障害から救えるのなら安いものだった。失った分が失ったきりになるわけでもない、体内でじきに新しい血が造られるのは普通の出血と同じことだ。 「けど、いつも……ちょっとした怪我でも、俺にやらせようとするから……わざわざ俺を呼びに来るから、さ……」  短い間でも、痛いのだ。血を流すために身を裂けば。  流れ出た血は流れ出た傷口もたちどころに治してしまうし、跡も残さない。だからといって。 「断ったんだ。そんな事情でそんなレベルなのに、俺に押しつけるなって」  下らない喧嘩だった。牙も爪も持ち出さない、人間の取っ組み合い程度の規模だった。メルクリウスを呼びに来た友人は、馬鹿だよなあいつらと笑ってすらいた。  俺は薬瓶じゃないんだと怒鳴りつけたときの、ぽかんとした顔を覚えている。どうしてそこで怒り出すのか、さっぱり理解していない顔。 「そしたら、……責められてさ、みんなに」  聞こえてきたのは非難ばかりだった。聞こえないところで同情や謝罪もあったのかもしれないが、届かなければ支えにはならない。  冷たいと。見捨てたと。友達甲斐のないやつだと。  ……味方してくれる者もいるだろうと、正直、思った。  血の提供を拒んだことで、死んだわけでも、重態に陥ったわけでもない。怪我の治りが遅くなっただけだ。遅くなったといっても言い立てるほどではない、十秒足らずで完治する血の癒しと比べるのが間違っている。  怒りより嘆きより、失望を覚えた。特効薬が身の内に流れている自分は、やはり薬瓶なのだ。今は言うなれば、蓋の開かなくなった。 「取り柄って、そういう」  ようやっと、と言うべきか。少女の声がした。ずっと無言で相槌すら打っていなかったことに、初めて気づく。 「……何て言っていいかわからないけど……」  わからないと断りながらも、言葉を探しているようだった。少年は無意識に半ば俯いていたから、あまりきちんと捉えてはいなかったが。 「……辛かったよね……」 「……ん」  人間界にまで、だから逃げてきたかったのだ。地元では誰もがメルクリウスを知っていたし、悪魔界全てに広げても、誰もが癒しの血を知っているから。  再び喋らなくなったと気づいて頭を上げると、少女は口を押さえてぽろぽろと涙をこぼしていた。 「……かる?」 「ごめん……ごめんなさい……何も、言えない……」 「いや、別に」  慰めや励ましの文言が欲しかったわけではない。もとい、凝って気の利いた文言が欲しかったわけではない。 「っつうか、そんなに泣くとは――泣いてくれるとは思わなかった」 「だって」  肝腎のことは告げていないのだ。手当てとは即ち我が身を切り裂くことだという、自分たちに特有の事情を。  ……泣かないまでも、自分の肩を持ってくれるだろうとは、思ったけれど。 「さっき子供が転んだときに、それでつい身構えたんだって、そのことを言いたかっただけなんだけど」 「つ、冷たいとか思ったんじゃなくて」 「ああ、こっちもそうは思ってない」  はっきりと心配そうにしたではないか。 「……俺には家族がいたし、逃げたいって言ったら逃げさせてくれる家族だったし、逃げ込ませてくれる冥火がいた」  痛みを理解してくれる者たちがいた。立場を同じくする中になら。  一族の中での結婚が多いのは、血を薄めるまいという配慮もあろうが、同じ癒しの血を引くからこそ理解し合えることがあるためでもあった。血を求められること。出血を求められること。見返りがあるときのこと、ないときのこと。 「だから、そこまで」  そこで途切れたのは、これはこれで傷つけることになるだろうかと危ぶんだためだ。自分には味方もいたのだから――かるには誰もいなかったのだから、より恵まれている友人のために心を痛めなくてもよいのだと、言うようなものではないか?  ああもう、と頭を掻き毟る。 「泣くなってば。困る」 「うん」  手首を使ってかるが目元をぬぐう。 「わたし、司君のいるところで怪我しないように気をつけるから」 「いないとこでもだわ、馬鹿」  一瞬本気で呆れてから、サンキュ、とメルクリウスは笑いかけた。そんな風に気遣われた経験は、記憶の限り、なかったので。

〈続〉

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