例えばこの、通り過ぎるダンプトラックの前に身を投げ出すとして。そうなれば間違いなく死ぬことは死ぬとして。  その瞬間の途轍もないであろう痛みだとか、その後その場に広がるであろう惨状だとか、具体的に一々想像しなくても。  来る。  来る。  今。  ――ぞわっ、と。心臓の裏側辺りから、首の付け根の辺りにかけて。  つむりそうになった目を意識して瞠り、同時に体重を踵にかけた。ふらりと踏み出してしまったら、寸の間の想像では済まなくなる。痺れたような感覚がじわじわと引いていった頃には、ダンプトラックは遙か左に消えていた。  イメージしたのは最低限、飛び込む、ということだけだ。それでも本能は敏感に命の危険を感じ取るらしい。否、跳ね飛ばすよりも踏み潰してくれそうな、ごつい車が迫っていて、実現性があったからこそだ。乗用車やバイクでは、うまくいかないこともある。  この、ぞわっ、に。魅入られているとは、まだいかないにしても。いつか本当に飛び込んでしまうかもしれない、という気はする。  それはそれで構わないはずなのだけれど、心理状態の面で不本意だ。自殺するなら恨めしい相手をしっかり恨みながら死にたい。母と、父と――。 「飽きませんか」  背後から急に声をかけられて、一瞬わざとらしいほど驚いてしまった。が、この声自体には然程意外性はない。  振り返れば思った通りの、このところ見慣れつつある姿があった。長身で痩身で二十歳ぐらいの覇気のない青年だ。 「飽きるって」 「随分と長い間、そこに」  青年は視線を下げてわたしの足下を示した。横断歩道の前。  佇むには不似合いな位置に、確かに随分と長い間佇んでいる。 「何、見てたの」 「ここを通るのは三度目です。動いたように見えませんので」  とすれば二回、わたしの背後を通り過ぎていることになる。その二回はスルーしておいて、三回目に至ってやっと声をかけたわけだ。ふうん。 「そんなに車がお好きですか」  この人はどこか大儀そうな、自分で自分の言うことに関心がないような喋り方をする。そんな調子で言われたら素直に受け取りようがない。十歳近く下のわたしに対して、やたらと敬語を使うのも癇に障るところがある。馴れ馴れしくされても癇に障るであろうことは認めるが。 「別に。飛び出したらどうなるかって考えてただけ」 「飽きませんか」  青年は最初の問いを繰り返した。……そこなの?  まあ、その問いの答えにはなっていない。飽きる飽きないとは別問題だ。随分と長い間ここに立っているのが、好きな車を眺めているためであろうとなかろうと。 「飽きたよ」  そっけなく言い捨てて、横断歩道から離れる。緩い坂になっている道を下る方へ歩き出すと、数拍遅れて青年もついてきた。というより、そもそも目的地がこちらの方角だったのだろう。  考えてみれば名前も知らないわけだが、交流を深めるつもりもない。行動範囲が重なっているから、顔を合わせる機会はあった。顔を合わせたからといって覚えるとは限らないし、話すようになるとも限らない。顔見知りから知り合いに昇格する意志は、わたしの方では特になかった。  最初に話しかけてきたのは向こうだ。つまりわたしに向こうの注意を引くようなところがあったわけで。……まあ、わかってるんだけど。何が注意を引いたかなんて。  でもその割に、二回も背後を通り過ぎながら声をかけなかった。一回ならともかく、二回。関心があるんだかないんだかわからない。  自転車が後ろでベルを鳴らして、わたしたちは左右によけた。その流れでちょうど目が合った。 「訊かないね」 「伺った方がよろしいですか?」  何を、とは返ってこなかった。やっぱり気になってはいるらしい。 「訊いてほしいってことはないんだけど、訊かれないのもわざとっぽい」  言いながら自分で苛立った。まるで本当は訊いてほしいみたいじゃないか。  歩みを速めも遅めもしないよう気をつけた。世間話の体で喋りたかった。 「なら伺いましょう。死にたいんですか」  直球で来た。……当たり前かな。フェンスの外側に立っていたところを、しっかり目撃されているのだから。  でも、それなら二回もスルーしないで、一回目で声をかけるべきだったんじゃないの。死にたがっているかもしれない知人が、車の流れを眺めているのだ。本当に飛び込む度胸はないだろうとでも考えたのだろうか。そうだとしたら、正解だけれど。 「……そう思うことは、ある」  答えるのに少し時間がかかった。訊いてほしかったわけではないから用意していなかった。用意してから振るべきだったな。 「原因は、どこに」 「家」  これには即答できる。 「母さんの頭の中には、兄さんのことしかないの。あたしになんか目もくれない」  要するにそういうことだ。母の愛への飢え。これに尽きる。  ただ、単に構ってもらいたいという段階をとうに過ぎていることは強調しておきたい。明日母が振り向けば解決するような問題じゃない。十二年に渡る積み重ねがあるのだ。不満は母に愛されないという段階を既に越えて、今は寧ろ自分がこの母の子であるということにある。自分の母親がこの母でしかなく、この母が自分にとって母親でしかないということにある。  本当にわたしが自殺したとしても、学校は安心していい。意地悪や嫌がらせは並にあっても、少なくともわたしに対しては、そこまで悪質なものはない。そもそもこういう母だから、原因を追及することはあるまい。  父は母と正反対に、母の分までとばかりにまとわりついてくる。わたしへの愛情というよりも母への対抗だろうと思うが、つまり父は母の無関心を知っている。最愛の一人娘が自ら命を絶とうものなら、ただひたすらに母を責めるに違いない。父の見境のない溺愛に嫌気が差していることも、原因の一つであるなんて想像もしないで。やっぱり、学校は安泰だ。  そういうことを述べ立てている間、青年は口を挟まなかった。時折見やれば視線がぶつかったり、俯き加減で気づかなかったり、気づいてはっと顔を上げたり、黙ったまま目つきで先を促したりする。表情に乏しいのでわかりづらいけれど、ちゃんと聞いてはいるらしい。後で何を言ってくるだろうか。共感してみせるか、それとも諭そうとするか。冷めた気持ちでわたしは考えた。  道路は少し先で線路をくぐり、その先から上り坂になっている。線路の手前で左へ折れれば駅はすぐそこ、銀行も郵便局もスーパーもコンビニも喫茶店も交番もその周辺に集中している。青年の用事が何であるとしても、八割方行き先はこちらだろう。 「お兄さんは」  線路の手前まで来て、青年が久しぶりに口を利いた。質問としては不完全だ。勝手な解釈で補わせてもらう。 「知らない。会ったことないもの」  曲がりざまに振り向いた。ことさら、明るく。 「母さんが捨てたの」  青年は足を止めたようだった。その隙にすたすたと、いや、歩調に一層気をつけて、わたしは先へ進む。再び足音が始まるまでには少し間があった。驚かせたらしい。 「――捨てた、とは」 「二十歳前に産んだんだって。産んだけど育てられないから施設に入れて、それっきり」  これが一番苛立つところだ。二十歳前に妊娠したのは自分だろうに、育てられないのに産んだのは自分だろうに、施設に入れたきり放っておいたのは自分だろうに――我が子を手放さなければならなかった自分は、あまりにも哀れすぎるという顔をして。今でも、いつでも、想っているのだ、愛しているのだという顔をして。  兄が手許にいたら、愛したはずがない。  そんなに兄が恋しいなら、父と結婚しなければよかった。わたしを産まなければよかった。育てられるようになってから、兄を迎えに行けばよかった。  母は幻想を追っているのだ。兄を白馬の王子様の同類と思っているのだ。兄を失ったことだけが不幸を招いて、兄を得ることだけが幸福を招くと、全てをそこに集約しているのだ。現に失っていて、再び得る見込みがないから。本物がなければ何だって託せる。 「幾つ違いか伺っても?」 「え?」 「お兄さんと。あなたの幾つ上です」  意識が内側へ向いていたのと問いに脈絡がなかったのとで、何を言われたのか一瞬わからなかった。何を訊かれたのかが問い直されてわかると、何故訊かれたのかが今度はわからなかったが、とりあえず記憶を探って八つだと答えた。一緒に暮らしていたとしても、一緒に小学校には通えない年の差があったはずだ。  青年は立ち止まって考え込んでしまった。わたしは少々不機嫌になる。兄が八つ上だと何なの。説明はないわけ? 「もう一つよろしいですか」 「やだ」 「あなたのお母さんの旧姓ですが」  簡潔で間違えようのない拒絶を、すっぱり無視されて目を剥いた隙に。  耳に入ってきたのは、紛れもなく母の旧姓だった。  既に瞠っていた目をそれ以上大きくできなくて、逆に力が抜けた。虚を衝かれた表情は、肯定の返事と変わらなかっただろう。 「お兄さんの名前は、ご存知ですか?」  こちらは絶句し、あちらの声は上擦った。もう一つって言ったじゃない、とおもしろくもない指摘をしている場合ではなかった。  知っている。兄の名も、表記も。  何故、訊く? 「……あなたの、名前は?」  怖気づいて、問いで返した。 「年齢も申し上げましょうか?」  決定的な情報を口にするのは向こうも怖いらしい。この調子では二人して、核心の周りをいつまでもうろつくことになりかねない。一呼吸の躊躇いの後、首を振る代わりに口を開いて。  わたしは青年の名を言い当てた。  青年は天を仰いで、参りましたね、と呟いた。昔の母の名――変わらない兄の名――どうして、どうして、偶然に出会って、答え合わせができるような情報を互いに持ち合わせて、しかも気づく?  ダンプトラックよりも強烈で、ダンプトラックと違って不快な、悪寒がぞわあっと背を這い上った。この人がわたしを気に留めたのが、フェンスの外側にいたからじゃなかったら。母の面影を見たのだったら。別れたのは乳児のときでも、自覚できないような深いところで記憶に残っていて、似ているわたしに惹きつけられたのだとしたら。  ――嫌だ! 母を介した縁なんて!  目がくらんだ。足が震えた。息が詰まりそうだった。立ったまま地の底へ落ち込んでいくような錯覚に襲われた。どうしてわたしはあんなに長いこと、車の流れをただ眺めていられたのだろう? どうしてフェンスのすぐ外で立ち止まってしまったのだろう? どうしてたった一回の跳躍をしておけなかったのだろう? 知り合う前に。知る前に。 「――え」  耳鳴りの向こうから声が聞こえて、わたしは目を瞬いた。意味を取れなかったと思ったのだろう、ですから、と青年は解説するように言った。 「同じ相手を恨んでいるなら、同志でしょう」  ――すうっと悪寒が引いた。 「恨んでる……の?」 「捨てたと言ったのはあなたですよ」  捨てたという非難に満ちた表現の視点を換えれば、捨てられたという怨嗟に満ちた表現になる。わかっていたのではないのか、と。捨てた母が兄を想っても、捨てられた兄は。 「……じゃあ、親をそんな風に言うものじゃないとか、言わないのね?」  青年は薄く笑った。初めて見た。 「歓迎しますよ。寧ろ」  ひくっ、と唇の片側が跳ね上がる。反対側も合わせて上げた。引き攣った不自然な笑顔になっていることは感じたが、きれいな笑顔に作り直すべき場面でもなかった。  同志。親を憎むのが罪なら、共犯者。  同じ実の母を恨める人間。同じ人物を、ではなく。  ……母を介した縁であることに変わりはないけれど。 「ゆっくり、話す?」 「用事があったんでしょう」  笑みを引っ込めて指摘する。別に笑えない話題になったわけではないだろう。表情と呼べるほどの表情を見せることの方が珍しいのだ。  母に似ず。 「あたしは後でもいいけど。あ、それとも」  にっと唇を裂いた。 「一緒に行く?」  そっちの用事もそこら辺でしょ、と行く手を大雑把に指せば、つられるように目をやって、そうですね、と兄は肯定した。 「そうしますか」  そして二人して歩き出す。  何から話そう。どのように話そう。わくわくと考えながら、調子に乗って横に並ぶと兄は眉を上げた。それだけで特に追い払われないことに気をよくして、無意識ににやにやしたらしく呆れた顔をされて、短時間に二度も表情が変わった事実と、それに気づいた目聡さにまた笑った。  ガードレールを挟んですれ違ったバスには、わたしは見向きもしなかった。

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