魔魅の目印

3

 ――来なかった。  指折り数えて待った日の、夕焼けの残滓が消えたとき、少女は我が身が生きながら怨霊になったように感じた。その瞬間には怒りで村を焼き払えそうだったし、怨みで村人を一人残らず病没させられそうだった。どこにいるとも知れない青年を呪い殺せそうだった。  けれども結局のところは、自暴自棄になったにすぎなかった。罵声や折檻を恐れるのが馬鹿馬鹿しくなった。冷え込む日々を薄着で過ごすことがどうでもよくなった。そのせいか少し熱を出して動くのが億劫になった。微熱程度で休んでいられないとはもう思わなかった。  うるさいなあ! 病人働かす気なの、人非人――。  辛そうにも恨めしそうにも聞こえなかったろう。いかにも欝陶しげに、聞く者の神経を逆撫でするように吐き捨てた自覚はある。碌な結果にならないことはわかりきっていた。炭焼き小屋まで連れていかれるとは、流石に考えなかったにしても。  閉じ込められた小屋の中で、忍び込む冷気に対抗するように体が燃えた。冷遇され酷使されてきた少女はしかし、ただ一人の青年を全霊かけて怨んだ。 「……忘れられたと思ったもの……」  呟いてみる。今になって涙があふれた。  目覚めたときには怒りも怨みも燃え尽きていた。あとは命が燃え尽きれば終わる。それでよいとすら思わずに、ぼんやりと終息を待っていた。 「……来なかったじゃないの」  目を閉じる。涙が伝う。今のうちだ。人に見せられるものか。  どこに齟齬があったのかは気づいている。セコートは一年と言ったのであって、一年後の同月同日とは言わなかった。かっきり一年後には来なかったけれども、おおよそ一年後には来た。  要するに自分が早計だったのだ。どこかで足止めを食らっているのではないかとか、回り道をしなければならなくなったのかもしれないとか、考えられることは幾らもあっただろうに、助かった命をもう少しで自分から捨ててしまうところだった。  信じ通せなかったのも仕方ないとは思う。そもそもあの青年に、自分を引き取る理由がないのだ。勿論あるにはあるのだろうが、レザンヌにはみつけられなかったし、本人は語らない。死んだ恋人に似ているのだろうか、それとも生き別れた妹に、などと想像を逞しくすることはできても、所詮は根拠のない想像である。信用の基盤にはならない。  けれども、何にせよ、セコートは再びレザンヌの前に現れた。村の壊滅に間に合わなかったにしても、レザンヌの衰弱死には間に合った。誤解も、解けた。  ――ただ。別の問題が、浮上してきた。  一頻り流した涙をぬぐって、少女は目を開いた。先ほどは感情のままに答えてしまったけれど、本来きちんと吟味しなければならないことだ。あの青年についていって、よいものかどうか。  とにかく村を出ていきたかった一年前には、誰でもよかったし何でもよかった。他にいないのだから選びようもなかった。けれども今は青年を拒んでも、恐らくこの神殿が受け入れてくれる。女神の神殿が孤児院を併設することはしばしばあるし、身寄りのない少女を尼僧見習いとして迎え入れることも珍しくなかった。  どちらに決める材料も、レザンヌは持たない。今のところはどちらも親切だけれど、その親切に裏がないとは言い切れないし、親切な自分に酔っているのかもしれない。親を亡くしたばかりの頃は、村人たちも優しかったのだから。冷遇されている哀れな下女では最早なく、山賊から辛うじて逃げ延びた痛ましい村人では最初からない以上、同情は長く続かないだろう。セコートにしても尼僧たちにしても、遠からず我に返って態度を翻すかもしれない。  どちらも同程度に疑わしいのなら、神殿の方が安全だ。何度考えてもどう考えても結論はそうなった。動機からして不明なセコートを、選ぶ動機はこちらこそない。セコートにレザンヌを気にかける理由がなかったように、レザンヌにもセコートを気にかける理由はない。  が、考えるのをやめれば――レザンヌはセコートについていきたかった。  何故かと問われれば答えられない。納得の行く説明をつけられない。強いて挙げれば村から連れ出そうとした前歴があるためである。求愛されてその気になったようなもので、つまりはセコートを信じるかどうか、差し伸べられた手を取るかどうかなのだ。そして理性が取るには値しないと告げる。優しげで頼もしげだった村人たちが、どれほど冷淡になっていったかを忘れたかと。  とはいえ、ならば尼僧たちはどうなのか。女神の神殿が弱者に優しいのはきまりごとのようなものだ。最低でも型通りに助けてはくれるだろうけれど、平等で自動的で、自分に向けられている気がしない。そういう意味では動機のないセコートの方が、よほどありがたみがあるというものである。  レザンヌは頭を横に倒して椅子に目をやった。枕元の水さしとコップを仰ぎ見た。両手を寝具の外に出して目の前に広げた。 「……いいよね?」  信じても。 「わざわざ来たぐらいだもの、ね」  誰も信じるなと経験が叫んでいるのに、信じたいのだと理想が叫び返す。こんな指をしているうちは旅などさせられないと言った。身を起こすのに手を貸し、水を代わりについで渡した。ここにいることを突き止めて訪れた。それでも疑いが解けないというのか。救う義務のある神殿の保護を冷ややかに見ながら、救う義務のない青年の保護もはねつけるなど、理屈に合わないではないか?  右手で左手を包むようにして、寝具の上から胸に押し当てた。それは祈りの姿勢でもあり――何かを抱き締めるようにしてみたくなったためでも、あった。

 花は好きか、と尼僧は問うた。 「別に」  嫌いでもなければ特別好きなわけでもない。人並だ。  興味を示すと後が面倒なのでそっけなく答えれば、嫌いなの? とピリュラはめげずに続ける。 「別に」  ここで、どっちなのよ、とは返らない。 「じゃあ、この部屋に飾ってもいいかしら? 殺風景だもの」 「別に」  レザンヌは同じ言葉を三度繰り返した。同じ言葉でも声音はその都度変化する。すげなくあしらったつもりでも、ある程度意志の疎通が成立してしまったのではないか。何となく、悔しい。  仏頂面の少女を置いて、尼僧は機嫌よく出ていった。セコートが来てからすっかり明るくなったのが、自分のために喜んでいるのであることはわかる。一方で今も時々、以前ほど切実ではなくとも心配そうにみつめてくるのは、本当は悲しんでも怖がってもいないことを聞いてないのだろうか。文句をつける筋合いがないだけ、却って余計に腹が立つ。  敬虔な純粋さが嫌いだ。底抜けの善良さが嫌いだ。裏表のない好意が嫌いだ。理想的で注文通りで手本のようで、近くにいるだけでたしなめられているような気分になる。  いつの間にかレザンヌの看護はピリュラ一人の担当となったらしく、他にはドーリアと医師役の老尼ぐらいしか、病室を訪れる尼僧はいなくなった。他でもないピリュラが残っているというこの人選が、少女には露骨に思えた。何か痛烈な毒を吐いてやりたい、村人たちを批判して聞かせてやりたいと、衝動に駆られることがあっても実行に移していないのは、適当な暴言が思いつかないからだ。尤も思いついたところで、本当に口にして傷つける度胸があるかどうかは怪しかったが。  廊下が軋まなくなるのを待って、寝台から降りた。ピリュラは昼食を運んできたのである。気に食わない相手が持ってきたからといって拒むほど幼くはない。  色の濃い木製の書き物机を臨時の食卓として、色の薄い木製の四角い盆を置いた上に、スープや粥の器が並んでいる。スープの器はコップ型で、両手で包めば温かい。熱いほどだ。気をつけて啜って、少女は頬を緩めた。ここの味は思いの外好みに合った。  具は野菜が中心で、燻製肉が幾切れか入っている。弱った胃腸にいきなり普通の食事では負担が大きかろうと、最初は具をどろどろに煮溶かしたスープと果物が主だった。それから粥が出るようになった。様子を見ながら通常食に近づけている途中で、旅に出られる体になるまでどれほどかかるかと思えば少々もどかしい。とはいえ、セコートが来るまでの絶食の竹箆返しなのだから仕方ない。  ゆるゆると時間をかけて食した。出歩くにはまだ心許ないけれど、寝て過ごすほどの容態でもない。食べ終えてしまえば暇になる。こちらが望めばピリュラは喜んで話し相手を務めるだろうけれど。  デザートなのであろう木の実を齧っていると、足音と床板の軋みが聞こえた。直せばいいのに、と思う。尼僧しか使わない居住棟よりも看護棟や聖堂を優先する神殿の気質を少女は知らなかった。 「ほら。可愛いでしょう」  ピリュラは早速花と花瓶を携えていた。白と薄いピンクの花弁に黄緑の茎と、全体的にふわふわした色合いである。家具の少ない部屋では置ける場所も限られていて、ピリュラは机の傍らの低い棚の上に花瓶を据えた。  相手の意思通りになっているのが何となく癪だったが、別に、と答えてしまった手前、やっぱり嫌だとも言いにくい。さっきと違うじゃない、と指摘されても不愉快だし、あらそうなの、と受け入れられても反感を覚えそうだ。上手く持っていく方法はないだろうかと考えかけたところへ、それとね、とピリュラの声がした。 「ドーリアさんが後でお話ししたいことがあるって。元気があったらだけど」 「……わかった」  レザンヌは答えて、最後の木の実を口に放り込んだ。どれもきれいに空になった器に、ピリュラは嬉しそうな顔をする。子供扱いされているようでこれも不満ではあるが、これは体の衰弱と同じく、絶食が招いたものの一つである。仕方ない。  ――話とは、何だろう。  ピリュラ相手なら苛立つなり突き放すなり好きにしていられるが、ドーリア相手となると少々緊張する。村のことやあの日のこと、セコートのことや今後のことを話さなければならないからだ。  肝腎のときに村にいなかったことは既に伝えた。生き延びた村人がいなかったことも改めて聞いた。天罰だ、とレザンヌは口を滑らせてしまった――神妙に項垂れていれば誤魔化せたかもしれないのに、そのまま恨み辛みを吐露してしまった。吐き出すと随分楽になった。死者であろうと生前の仕打ちを思えば悼む気にはならなかったが、道徳的な罪悪感は覚えていたらしかった。  考えてみれば、女神は赦しを司り、尼僧はその代理として懺悔を聞くのだ。尼僧となって長いのだろうドーリアは、抱え込んだ負の感情を自然と引き出すのかもしれない。そう考えればやはり、苦手意識が生じた。 「――村にいた人の人数と名前ですか?」 「交流が少なかったから、わからない人が大勢いるの」  男神の神殿から頼まれているのだと壮年の尼僧は言った。  町の人間が認識できた村人はほんの一部だった。ほとんどは名前もわからないまま、従って墓標に名を刻むこともなく埋葬された。掘り起こして確認するわけにはいかないけれど、僧侶たちが全ての遺体に番号を振り、発見個所や身体的特徴を一々記録している。その記録を参照しながら、何番が誰の遺体であったか、推測してもらえまいかということらしい。 「大体わかるとは思いますけど」  当日はいなかったにしても何年か暮らしてはいる。然程大きな村ではない。全員の完名はわからないとしても、八割方の呼び名であれば何とかなるだろう。 「では、担当の人に来てもらいましょう。お願いしますね」 「はい」  ――セコートのことじゃ、なかったな。  ドーリアが去ると、レザンヌはほうと息を吐いた。気にかけつつも恐れている話題だ。避けては通れないことなのだから、結局は先延ばしにすぎないのだけれど。  あの青年は信用できない、ついていくなともし言われたら。どうしても望むのであれば止めないが、というような中途半端な言い方は、あの尼僧はしないだろうと思う。止めるならきっぱりと宣告するだろう。それとも逆に、あの青年なら大丈夫だと太鼓判を捺されたら。それはそれで心弾む想像ではなかった。  考える時間はたっぷりあったから、レザンヌは自分の一番の本音に気づいていた。根拠もなしに信じたい、のである。  無論、その信頼を裏切られてはならない。信じるという判断自体は正しくなければならない。但しその判断を、純粋に信頼のみに基づいて行いたい、ということなのだ。だから根拠のある神殿には惹かれず、保証のないセコートには躊躇する。  無理がある、と我ながら呆れたが、理想や願望は現実を考慮しない。叶うから願うのではない。叶わないから願うのでも、ない。  愛情よりも何よりも、第一に信頼に飢えていた。 「……さっさと連れてってくれていいのに」  気疲れして寝台に倒れ込む。この天井は見慣れてしまった。見飽きてしまった。  今なら勧められても止められてもいない。旅立ってしまえば、もう迷うこともない。自分の体を気遣っているのだと、気遣うような体にしたのは自分だと、何度も言い聞かせてはいるけれど。  ……花瓶と花を片づけさせる作戦でも練ろう。  堂々巡りに陥るとわかっている、既に何度も繰り返した思考から離れるべく、そう決めて少女は寝返りを打った。

〈続〉

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