僕らの秘密

1.Side C

「リーシャ、よく聞いて。クルスも」  やめてよ、と遮りたかった。遺言だろうことは明らかだったからだ。けれども、だからこそ、聞いておかなければならなかった。  縋りつく妹の頬に、兄が優しく触れる。指も、手首も、嘘のように細っていた。温かくて、力強くて、頼もしかったはずの。 「僕が、死んだら。ペジオの村の……カートっていう人を、頼って。助けてくれるはずだから……」  病床で、苦しげな息の下から、そう告げた兄は。  ──奇跡的に、一命を取り留めた。

 神殿に保護されたとき、兄は十歳、僕は四歳、妹は三歳だった──らしい。兄がそう申告したということであって、自分では覚えていない。純粋にはぐれたのか、意図的に捨てられたのか、何にせよ、親は現れなかった。  幸い神殿は親切で、暖かく僕らを育ててくれたけれど、決して豊かではなかった。そのまま聖職者になるつもりもなかったし、治安のいい街だったこともあって、今は神殿を出て三人で暮らしている。兄がいなければ、あるいは三人でいることにこだわらなければ、僕と妹はもう二、三年世話になっていただろう。  穏やかな暮らしの中で、突然、兄が病に倒れて。悪性だと診断されて、治療費が家計を圧迫する間もなく死に瀕して。きっと誰もが、助からないと思っていた。振り返ると本当に悪夢だったかのようだ。──覚めたのだから。  諦めた日常は戻ってきた。ある日を境に元気になったわけではない、落ちた体力を再びつけるのに多少時間は要したけれど、特に後遺症も残さず、兄は僕らの許に留まった。全てが元通りになった――かのように、見えたけれども。 「兄さん」 「うん」 「ペジオの村のことなんだけど」 「僕は死ななかったんだから、行かなくていいよ」  意を決して切り出した僕とは対照的に、兄がスープをすくう手を止めたのは、事もなげな返事をする間だけだった。 「行かなくていいよじゃなくてさ」 「忘れて」  にっこりと言われればぐうの音も出ない。  永遠の別れを覚悟していたから、そうでなければ口にしないような、気恥ずかしいことも随分言ったと思う。僕も、妹も、兄自身もだ。兄が遺される僕らを案じたのも自然なことだった。兄でさえやっと二十歳なのだ、その程度には僕らは幼い。  ペジオという村の、カートという人のことを告げたのも、それゆえだったのだろう。そうでもなければ語らないことだったのだろう。明日、明後日まで持つかどうか、今を逃せば次の機会はあるかどうかという、ぎりぎりになるまで話さなかったことから推しても。  ……だからって、さっと忘れられるものでもない。 「リーシャは気にならないの?」  パンとバターとレタスをせっせとサンドイッチ型にしている妹に、味方にしようと水を向けてみた。 「ならないよ?」  見事に失敗する。 「アズロお兄ちゃんが言わないなら、聞かなくていいことだっていうことだもの」 「僕が洗脳してるみたいだなあ」  兄は苦笑した。なるほどそうとも聞けるけれど、その解釈には賛同しない。妹がそうであるように、僕も信頼している。判断力も、良心も。  それでも、しかし、気にはなるのだ。正当な理由があるのだろうと信じることと、その理由に関心を持たないこととは、違う。 「カートさんて、親戚?」  食い下がってみるも、返答はなかった。本当に聞こえていないかのように、それはもう華麗に黙殺。こうなると聞き出せる気がしない。だんまりを貫くというのは単純でいて難しいことだけれど、……兄さんの精神力、尋常じゃないし。  最後に一回だけ、主張のように溜め息を吐いて、僕はあまり進んでいなかった朝食に戻った。うるさく言いすぎて、隠し事を責めているように聞こえたとしたら、――そう感じさせてしまうのは、本意ではなかったので。

「俺がいない間にアズロが死にかけたって?」  久しぶりに顔を合わせるなり、ラガシュはけろりと言ってのけた。  ラガシュ=ダンドは商家の一人息子である。あまりそうは見えないというか、気ままに遊び歩いている自由人みたいに見えるのだけれど、実際には真面目、というより律儀な人だ。第一印象がああだから本当以上にそう見えるのさ、というのが兄の評である。売り捌くことより仕入れることの方が好きらしく、店に出ることはほとんどなくて、大概は旅路にあるのだった。  神殿にも通えるときにはきっちり通う性質で、神殿にいた僕らと顔見知りになって、特に年齢の近い兄と親しくなった。兄が勤め先を探し始めたときも、自分の店ではどうかと誘ったらしい。商売人には向かないよと兄は断ったのだが、僕が働こうと思うと相談したときには、ラガシュに頼んでみたらと勧められた。自分の目は届かなくても安心できる場所、ということだったのだろう。結果としてはそれに従って、僕はダンド商店の見習いになった。  ラガシュが兄の病気のことをそのときに知らなかったのと、帰ってきてから兄より先に僕と会ったのとは、そういうわけだ。ラガシュは今回かなり遠くに行っていたし、病気は進行も回復も速かったから。 「よりによってそんなときに。殺しても死なないやつだとは思ってたけどサ」  冗談めかしたけれども、病気だと聞いてから助かったと聞くまでの数秒の間に、相当仰天と心配をしただろうことは想像に難くなかった。  兄の話題になって、自然にあのことを思い出した。閃いたことがあった。 「ね、ラガシュ。ペジオ村ってとこに行く予定ってない?」 「何、行きたい?」  年上の友人はそう返してきた。  それまでは必ずしも、自分で行きたいと考えていたわけではなかった。行くならついでに調べてきてくれないかなと期待した程度だ。が、この返答で、何をどう調べてほしいのかもよくわからないのだし、あれこれ説明するより自分で訪れる方が速いなという気になった。唆されたと言いたいわけじゃないけど。  秘密にされるのが不満だというわけではない。いや、不満は不満なのだろうけれど、だからといって怒ったり悲しんだりする感じじゃない。……悲しいではなくても、寂しいのかもしれない。秘密を分けてくれないことが。  だとしたら、忘れてという言葉に逆らって知ったとしても、寂しさは埋まらないだろうけれど。そう言った理由はわかるかもしれない。兄が僕らに隠し事をする理由。  特産とかあったっけかな、などと呟きながら、友人は友人でしばし考え込んでいた。それからきりをつけるように、パンと小気味よく手を叩く。 「前向きに検討してもいいけど、行くんだったらアズロの許可取ってきな」  勝手に連れ出したら叱られんの俺だし、と言い添えたところからすると。どうやらこの友人も、兄には敵わないらしい。

 実現するまで多少かかったが、友人は本当に、僕をペジオまで連れてきてくれた。かつては珍しい果実酒を作っていて、しかしラガシュが生まれた頃から値段が上がって出回らなくなって、それがここ一、二年また流通し始めた、という。以前もダンド商店とは取引があったわけではない、新規開拓だと友人は楽しそうにしていた。  兄には話さなかった。書き置きを残してきただけだ。そのことを友人は察していたかもしれないけれど、最初から最後まで触れることはなかった。  ラガシュと一緒だからとも、ちゃんと帰るからとも書いた。ラガシュに同行するのだから、仕事をすっぽかしたわけでもない。三人暮らしなのだから、兄にせよ妹にせよ、いきなり独りぼっちにしてしまうわけでもない。……胸のうちで言い訳をしていた程度に、後ろめたくもあったけれど。  到着して宿を決めると、今日は自由時間でいいぞと友人は解散を宣言した。甘えすぎても悪いから今日中に終わらせようと、僕は手始めに宿屋の主人にカートさんのことを尋ね──思いがけない返答を、得た。 「亡くなってるんですか?」 「三年前の流行り病で、夫婦揃ってね」  では、兄は知らなかったのだ。兄にも知らないことがあったのだと、当たり前のことに驚いた。  あの二人に用があったのなら、気の毒だが無駄足だったな、というようなことを言ったきり、主人は話を続けてくれなかった。僕も混乱してしまって、突っ込んで訊こうとは思いつきもせずに、とりあえず外に出た。違う意見の人もいるかもしれない、というような気分だったと思う。片方は生きているよとか、自分は一年前派だとか言う人が、いるはずなどなかったのだけれど。  それから一人二人、通りすがりを捕まえた。告げられる事実は無論、同じだった。家の場所を教わって、向かった。眺めてどうなるわけでもないものの。  その途中で、自分と同じ年頃の少女と会った。何となくほっとする。大人たちよりも、あれこれ訊きやすそうだ。 「そうよ。三年前だったかな」 「みんなそれしか教えてくれないんだけど、何かあったの?」  少女は困ったような顔をしたが、聞かれていないか確かめるように周囲を見回して、思いなしか声をひそめた。 「天罰だって、みんな言ってたわ」 「……え」 「酷い人たちだって、かなり嫌われてたの。もし生きてたとしても、関わらない方がいいって止められてたと思うよ」  ……兄さんが頼れって勧めた人が?  悪いことを言ったろうかと案じるような表情と、だってそういう人だったじゃないのとむくれるような表情を、半々に少女は浮かべた。が、驚いたのは兄の指示と正反対だったからであって、本人の人となりを知ってのことではない。少女が想像しただろうようなショックを受けたわけではなかった。 「詳しく聞かせてくれる?」 「……あたしは小さかったから、直接は知らないんだけど」  三年前まで生きていたのではないのか、とその前置きに首を傾げたけれど、夫婦がこの村に来たときのことを指していたのだった。元々は、『館』で通っている村で一番大きな家に、妻の方の兄夫婦が住んでいたらしい。兄夫婦が亡くなったときに、残された甥の後見を務める、と言って移り住んだのだ。しかし実際には、自分たちこそが館の主であるかのように振る舞い、幼い甥を使用人のように扱っていた。自分たちの子供、甥にとっては年下の従弟妹たちに対して、敬語を使わせてさえいたという。  その甥と子供たちはどうしたのかと思えば、馬車の事故で死んでしまったとのことだった。亡骸はみつからなかったが、夫婦はそのことに腹を立てこそすれ、悲しんでいる様子は見受けられなかった、らしい。どうせ死んでいるだろうに金をかけるものではないと、捜索も早々と切り上げたとか。  ……ひょっとして、兄の言葉を僕が聞き間違えたんだろうか。生きていたとしても、到底助けてくれたとは思えない。聞き間違いでないなら、どうしてそんなことを……。  ──そんな人たちが助けてくれるとしたら、誰だろう? 「続ける?」  いささか罰が悪そうに、少女は問うた。口が過ぎたと感じたのかもしれない。  思いつきに気を取られて数秒黙り込んでから、はっとして僕は手を振った。不快ではなかったと伝えるつもりだったのだけれど、質問に対してこれでは噛み合わないなと気がついて苦笑する。一瞬疑問符を浮かべた少女は、何となく察してくれた様子で、合わせるように唇を歪めた。 「――子供たちは、仲良くしてたのかな。従兄弟同士」 「多分。子供の方を悪く言ってるのは聞いたことないし」  親に似ずよい子だった、可哀想なことだった、しかしあの親に育てられるのもそれはそれで気の毒だっただろう、というのが大方の意見だった。三人で仲良く遊んでいる姿はよく見受けられたと聞く。事故になど遭わず無事に成長していれば、従兄に対する親の仕打ちを、いつまでも見過ごしてはいなかったかもしれない。  遠慮がちに再開したけれど途中から勢いづいて、そこまで来てはたと口を押さえた。それから弁解を諦めた様子で溜め息を吐く。 「同い年ぐらいの子って、この村にいないんだ。生きてたら友達になれたかもしれないって、ずっと思ってた」  ああ、だから。碌に知らないはずなのに、憤っていたんだ。 「ちゃんと知りたかったら、他の人にも訊いてみた方がいいと思うよ。あたしじゃあの子たちのことばっかり言っちゃう」 「そう言うんならそうしてみるけど。話してくれるかなあ」  まともに答えてくれたのはこの少女が一人目だ。意地悪というわけではないことも、もうわかったけれど。  尤も、何かを教えてくれる人が結局他にいなかったとしても、きっと一番大事なことは聞けたのだろう。 「子供たちの名前だけ、教えてもらっていい?」  最後に一つ、と指を立てた。見当はついていたのだけれど。

 よ、と友人が片手を上げた。いるとは思っていなくて少し目を瞠る。調べるつもりだとは特に聞いていなかったけれど、どういう経緯でか、知ったのだろう。何もないのに来るような場所ではない。 「カート家の墓所だってさ」  まず『墓所』ってのがすごいよな、と実際に感心している様子で付け加える。  手入れの行き届いた、普通の墓が二基、立派すぎていささか趣味が悪い気のする墓が二基。対照的に荒れた墓が二基。墓なのだから金をかけてもこれぐらいであるべきだろうという、適度に立派な墓が、一基。  子供たちの墓に刻んだ名を読んで、僕は一つ息を吐いた。  リーシャ=カート。クルス=カート。アズロ=カート。 「みんな悪いことしか言わないんだねえ。遠慮のあるやつもないやつも」 「そうだね」  あの後も数人に話を聞いた。酷い人だったって聞いたけど、と切り出すと、大概口が軽くなるようだった。死者を悪く言うものではないと口を濁した人は、結局何も話さなかった──そうなると何も言うことがないというように。  自分の関心に引きつけて語るからだろう、聞けたことは割合多様だった。あの少女は甥や子供たちのことを言っていた。けちだとか金に汚いとかいう話もあった。騙したり陥れたりして他人の畑を奪ったとも聞いた。ある泉を含む土地の所有権はカート家にあるのだと権利書を出してきて、使用料を取り始めたと憤慨する人もいた。畑は時々休耕地にして休ませなければならないのに、それを軽んじて毎年何かを植え続けたから、土地が痩せてしまったと呆れていた人もいた。あの感じだと、果実酒が出回らなくなったのも、直接あるいは間接に、あの人たちのせいだったのではないかと思う。  そんな人たちでも、死んだはずの子供たちが帰ってきたなら、きっと助けてくれただろう。優しく接したかは別問題としても。 「馬車の事故って、何があったんだろう」 「遠くの神殿に行って、帰ってこなかったってやつだろ。馬車の残骸が谷川でみつかったっていう」  亡骸がないってそういうことか。  本当は死ななかったのだ。命拾いして谷川から上がってきたのかもしれない。落ちたときにはちょうど馬車から下りていたのかもしれない。帰途に就くことなく行方を眩ませたのかもしれない。三人きりだったはずはない、少なくとも御者がいただろうけれど、その人はどうしたのだろう。三番目の想像が当たっていて、責任追及を恐れて雲隠れしたとかいうのだったら――要は、亡くなったのでなければ、いいんだけど。  帰らなかった理由はわかる。散々聞いた。どんなに酷くて冷たくて意地の悪い人たちだったか聞いた。話さなかった理由もわかるし、あのとき話した理由もわかる。  家も見てみたけれど、『館』の通称に恥じない大きさで、なるほど三年間誰も寄りついていないんだなという程度に荒れていた。そこに住んでいる自分を想像してみても上手くいかず、家族でいる光景などまして浮かばなかった。けれども勘違いにしては、名前が三つともぴたりと一致する。 「アズロの祟りかもしれないって言われてんの、聞いた?」 「三年前のが?」  祟るにしては遅すぎないかな。例の事故があったときから七年も経ってるのに。 「僕は天罰だって聞いたよ」 「ま、どっちにしても本格的に本気なわけじゃないっていうか、ひょっとしたらって感じなんだろうけど。それで最近造り直したんだとサ」  友人は顎で兄の墓を示した。以前は簡素な供養塔しかなかったのを、村の人たちがちゃんとした墓にしたのだという。だからこれが一番新しいのだ。……僕と妹の墓は、ちゃんと造ってあったのに。  どう受け止めたらいいんだろう。カート夫婦。──僕の親。特に懐かしんだこともない。酷いやつだと評されても、傷つくような思い入れはない。けれど、その酷い人たちは、どうやら確かに親であって。  恋しくなるような話も聞かなかった。誰にも、実の子供にさえも、心から悲しんでもらえないのなら、……それは、哀れなことではあろう。  荒れた墓をみつめて、気持ちを整理しようとした。僕はどう感じているだろう。誰について。何について。

 街に着いてもすぐには帰宅しなかったのは、今さらのように気まずさを覚えたからだ。勿論、仕事に託つけて出かけたのだから、どのみちまっすぐ戻るわけにはいかない。それでも普段と同じぐらいの時間には上がれてしまった。僕はまず家と反対方向の食堂に行き、ゆっくりと夕食を摂り、食べ終えてからもぐずぐずしていた。  遅くなってから、やっと家に戻った。二人とも寝ている頃だろうと思ったが、ドアには鍵がかかっていなかった。見咎められたときのように、我ながら奇妙にすばやく、滑り込んで、閉じた。  ランプは点いておらず、代わりに蝋燭の火がちらちら揺れていた。妹の姿はないが、兄はテーブルに突っ伏していて、聞こえているだろうにすぐには動こうとしなかった。その手許に自分の書き置きがあることに、ややあって気がついた。 「……ただいま」  ゆっくりと上げた顔は、思ったより落ち着いていた、というよりも、疲れたように表情が薄かった。叱られるよりもどきっとした。病床にあったときでさえ、こんな兄は見たことがなかったので。 「お帰り。クルス」 「……ごめん。心配かけて」 「おまえの心配なんてしてないよ。僕は」  言葉を切って、蝋燭に目をやる。というより、ただ正面を向いただけだろう。 「おまえが帰らなかったらって、おまえを失う自分の心配ばかりしてた」  浮かべた笑みは自嘲だった。  僕は唇を舐めた。不思議なことというか気懸りなことというか、帰宅を今まで引き延ばした理由は、断らずに出かけたのが後ろめたかった他にも、あった。知りたいような、知りたくないような――望ましい答えであるなら知りたくて、そうでないなら知りたくないこと。 「僕らが憎くならなかったの?」 「おまえたちは僕に懐いてたからね」  返答はあっさりしていた。間を持たせるためだけの、特に意味のないやり取りであったかのようだった。  胸の奥の強張りが、するりと散った。それだけでよかったのだ。あの人たちの子供であるという事実は、妨げにならなかったのだ。  そんなこと気にしてたの、と兄は笑うかもしれない。赦す方がそう言うのは容易い。『そんなこと』かどうかを決めるのは、僕ではない。 「おまえたちを連れてきたのは、叔母たちへの復讐でも、おまえたちを助けるためでもなくて……独りになりたくなかったからだった」  呟きを聞いて、思い至る。知らせることがあった。 「二人とも、亡くなってたよ。三年前に、流行り病でだって」  ゆっくりと、兄は目を見開いた。首をひねって、こちらを向く。あ、驚かせた、と愉快なような気持ちが微かによぎった。どんな人であれ、人が死んでいるというのに、心から愉快になれたわけでもなかったけれど。  そう、とほとんど声にならない囁きがこぼれた。呆然としたように、片手を額にやって肘をつく。そうしてから、ふっと力を抜いた。 「なら、話すんじゃなかったな」 「知ってよかったよ、僕は。でなけりゃ、兄さんがどんな目に遭ったかなんてわからなかったもの」  傍らに跪く。テーブルの上に残っている方の手に、自分の手を二つとも乗せた。  実の親と永遠に引き裂かれたのだとか、あの家で安楽に暮らせたはずなのにとか、あの村であの子を幼馴染みに育つはずだったのにとか、そういった切なさは一度だって湧かなかった。第一、カート夫婦からして――実の親だという思いより、兄を虐げた仇だという思いの方が、強い。 「心配させてごめん。でも、そんな心配はいらないよ。僕は兄さんの弟だ」  幾分面映ゆかったけれど。はっきりと、聞きたいだろう。  兄は頭をずらして、支えにしている方の掌に、両目ともを隠してしまった。口許がくっと上がった。僕の両手の下で、握り拳が震えるのがわかった。  かつてのことを全く気取らせなかったぐらい、強い意志の持ち主なのに。兄にも怖いことがあったのだ。僕が帰らなかったら、なんて、そんなことが。  両手に力を込めた。正直に言って、嬉しかったので。

「クルスお兄ちゃん?」  忍び足で寝室に入ると、眠っているものと思っていた妹が寝返りを打った。 「お帰りなさい」 「ただいま」  気負いのない呼びかけに、釣られるように軽く返す。兄のときとは随分違った。  きっと妹はまだ知らない。きっと兄は打ち明けていない。知ったらどう思うかと少しだけ考えたけれど、何にしても心配はいらないだろう。僕がそうだったように。  ふふっ、とおかしそうな笑い声がした。 「ほら、ちゃんと帰ってきたでしょ? アズロお兄ちゃん」  やり込められたときのように、兄は苦笑で応じた。

〈続〉

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