僕らの秘密

2.Side A

「これ、クルスお兄ちゃんの」  リーシャが差し出したのは書き置きだった。予想していたとは言わないが、驚くようなことでもなかった。  ペジオ村に行く、ラガシュも一緒だ、ちゃんと帰るから。その程度の、短い文面。 「そう。……やっぱり気になったかあ」  苦笑してみせるぐらいしか、ない。ペジオ村のカート、という名を出してしまったのは自分だ。 「ラガシュが一緒なら、仕事だね。道中は安全だ」 「うん」  明るく頷いたリーシャは、欠片ほどの不安も不穏も感じていないようだった。

 十年前、僕は二人の従弟妹を拐った。  親はペジオ村で最も裕福で、館と呼べるような大きな家と、実り豊かな広い果樹園を持っていた。親の死後、僕の後見と称して、叔母──よそに嫁いでいた父の妹が、家族と共に戻ってきた。その日から、本当にその日から、僕は使用人の部屋に追いやられた。  昔のことを色々言っても仕方がない。幸いだったのは、従弟妹のクルスとリーシャが僕に懐いたことだ。叔母夫婦は幼子の世話を好まず、僕が子守りを命じられることは多かったから、二人は僕といる時間の方が長かった。使用人らしく仕えるよう、例えば敬語で接するように叔母夫婦は命じていたけれど、従っていたのは無論その目と耳があるときだけで、普段は従兄妹らしく、時には兄妹めいた接し方をしていた。  あるとき、厄払いか何かで、遠方のさる大きな神殿に、クルスとリーシャを連れていく必要が生じた。当然のように叔母夫婦は同行せず、僕と、流石に大人の使用人が一人、一緒に行くことになった。正解には、他に御者がいた。傍からは寧ろ、僕が一緒だったことこそが奇妙に見えるかもしれないが、二人を行儀よくさせておくにはそれが手っ取り早かったのだ。  狙い通り、二人は僕の言うことをよく聞いた。そうしないと僕が叔母夫婦に叩かれることを、幼いながらに感じ取っていたからではないかと思う。周りに興味津々だったクルスも、逆に気後れ気味だったリーシャも、騒いだりぐずったり迷子になったりせずに、恙なく参拝を終えた。後は神殿の近くにある屋台でも楽しんでから、焦らずにのんびりと帰ればよかった。  ──否、僕は帰らないつもりだった。そのつもりで、宝石箱の中身を幾つか持ち出してきていたから、既に引き返せなかった。叔母夫婦は盗んだと言うだろうけれど、本来僕が継ぐべき財産の一部である。その神殿のある街からもう少しだけ遠くへ行くための費用ぐらい、無断で使っても罰は当たるまい。  二人のことは僕が見ているから休んでいて、と使用人を追い払った。叔母夫婦のいないところでまでそんなことをしなくてもと、それは自分の仕事だと使用人は慌てたけれど、僕が引かずにいれば割合簡単に折れた。両親の生前からいた使用人は大体僕に同情的で、しかし表立って抗議した者は辞めさせられてしまったから、残っているのは押しの弱い者ばかりだったのだ。  使用人に輪をかけて、幼い従弟妹の目は誤魔化しやすい。気づかれないように去るのは容易いはずだった。ちょうどクルスは地面に群れる小鳥たちに夢中になっており、手を繋いだリーシャもそっちにいて、僕には背を向けていた。そこに年輩の女性が声をかけて餌を分けてやって、二人は空いた方の手で受け取り、撒いた。利き手が塞がっていたリーシャは上手くいかなくて、ほとんど足許に落ちてしまったが、小鳥たちはしっかりみつけて食べに近づいてきた。群がられて怯えていたのを覚えている。  今でも目に浮かぶのは、それだけ見入っていたからだ。……きっと、二度と会えない。  いや、何年も何十年も経った後で、叔母夫婦を避ける必要がなくなれば、帰ってみないとも限らないが。そのときの二人は僕の知る二人ではないし、二人の方は僕のことも記憶していないかもしれない。  わかっていたことだ。わかった上で決めたことだ。叔母夫婦の許で暮らすことの方が、何倍も何倍も苦痛だと結論づけたではないか。  これが、最後の。……最後の……。 「──クルス、リーシャ。そろそろ行くよ」  呼んだ。  気づけば呼んでいた、わけではない。明確な意志を持って。  二人は駆けてきた。勢い余ってクルスが一瞬転びかけた。 「馬車の調子がよくないみたいだから、先に歩いて行ってよう」  歩ける? と訊けば、クルスは胸を張り、リーシャもこくんと頷いた。疑いなどこれっぽっちも差し挟まずに。馬車のことなんて、出任せだったのだけれど。  ──十年前。  僕はクルスとリーシャを拐った。

「あのね、クルス、リーシャ。僕は今日から、君たちのお兄さんになったよ。神様が願いを叶えてくれたんだ」  そう言い聞かせれば信じて、やがてそうでなかった頃を忘れてしまう年頃だった。神殿に行ったのはそのためだったのだと納得した風で、二人は驚くほどあっさりと僕のことを兄と呼び始めた。  それからのことは、気が気でなかった感覚ばかり鮮明に覚えていて、具体的なことはほとんど思い出せない。叔母夫婦が差し向けた追っ手にみつかるのではないか、子供ばかりの三人組を周囲が怪しむのではないか、実は兄妹でないことを従弟妹たちが暴露するのではないか、一向に帰途に就かないことを不審がるのではないか、家を懐かしんで泣くのではないか、体を悪くしてはいないか、本物の人拐いに捕まりはしないか。  使用人と御者が責められるだろうとは思った。邪魔な甥がいなくなってもあの夫婦は気にも留めないだろうが、我が子もとなれば違うだろう。だからといって思い留まれば、こんなチャンスはもう巡ってこない。  幾つか離れた街の、あのとき参詣したのとは比べ物にならない小さな神殿に、保護されたのはしばらく後のことだ。兄弟姉妹であっても男女は別々に育てる場合もあると聞いていたから、そういう方針のところにうっかり助けを求めないようにとは気をつけた。僕のせいでクルスとリーシャが引き離されることだけは、あってはならなかったから。  詳しい事情は勿論告げなかった。両親がいなくなったことと、自分の家が自分の家でなくなったことを言ったぐらいである。表面上嘘は吐かなかったけれども、騙す意図はあったのだから同じことだ。真偽や詳細を追及されたことは、それから今に至るまで、ない。僕さえ黙っていれば、誰にもわからないはずだった。  ところが、あれから十年経って──僕は、死病に侵された。愕然としている間に、ほんの十日から半月もあれば全てが終わってしまう、性質の悪い病だった。  十四歳と十三歳の弟妹、否、従弟妹のことを考えた。貧しい子供であれば、働くには早すぎるというほどの年齢ではない。とはいえ、二人きりで生きていくには幼すぎるように感じた。  友人に頼めば、ひょっとしたら頼まなくても、僕に対する叔母夫婦よりも余程まともな後見になってくれるかもしれなかった。が、そのとき友人は仕事で旅路にあったし、二人に肩身の狭い思いをさせるようならなるべく避けたかった。  秘密を墓場へ持っていくかどうかも、考えた。そうしてしまえばきっと、二人は永遠に知ることのない──。 「僕が、死んだら。ペジオの村の……カートっていう人を、頼って。助けてくれるはずだから……」  結局、それだけ、告げたのだった。生まれ故郷と親の姓。切れ切れに言うのが精一杯だったのは本当だが、一切合財を白状せずに済ませたいという意識は、正直、あった。あの村にさえ帰れば、後は自然と知れる。  だから──助かったことこそが、天罰だと思った。逃げ込もうとした死の淵から引き上げられて、秘密の一端を明かしてしまった後の、二人の前へ戻されたのだから。

 昼食の嵐が去って、大衆食堂がやっと落ち着きを取り戻した頃、給仕のメイニーが呆れた顔を厨房に突っ込んだ。 「ラガシュが来たわ。アズロひとっつ、ですって」 「二つじゃなくてよかったじゃないか」  肩を竦めてから、店主に目で問いかける。店主は許可の印に、顎をしゃくって厨房の外を示した。 「ちょっと。あんたは賄いでいいとして、あいつは?」 「魚の定食で、サラダは生野菜の方にしといて」  勝手に決めてメイニーに告げると、僕は一足早い休憩に入った。真ん中近くの席で寛いでいたラガシュは、悪びれずにひらひら手を振った。 「死に損なったんだってなー」 「全くだよ」  死ぬはずだったからあのことを言ったのにね。  返事の意味がわからなかった様子で、そりゃあ勿論わかるはずもない、目をぱちくりさせている友人の向かいに腰かける。  ラガシュ=ダンドは年の近い友人である。商家の息子で、商いの旅からつい昨日帰ったところだ。ダンド商店にクルスが勤めているから、戻ってきたことは聞いていたし、となると近々顔を見せるなということも予想はついていた。  ラガシュが呼んでるなら休憩入っていいぞ、なんてことが通るのは、ラガシュが可愛がられているからだ。この友人は味方を作るのが上手く、自分を甘やかさせる手管を心得ているらしい。ちゃんと混雑する時間を避けるぐらいの配慮はするのだし。  やがてメイニーが料理を運んできた。げ、魚、とラガシュは顔をしかめ、体にいいよと僕は嘯いた。肉料理にポテトサラダの方が喜ぶだろうことはわかっていて、敢えて逆を行ったのである。メイニーも承知していたはずだ。 「嫌ならちゃんと注文しなさいよ。何よアズロ一つって」 「つっこんだらおもしろくないじゃん。駄目だなあメイニーは」 「次に同じこと言ったら、アズロを切り刻んで煮込んで出してやる」  切り刻んで下拵えをするところまでは僕の担当なんだけどな。  そこを指摘するとラガシュに与する格好になるから、黙って二人を見守りながら自分の食事を進めた。冗談で済むのだと主張するかのように、僕があのまま死んでいたら言えなかっただろうことを言う。二人して発想が同じなんだから。  しばらくやり合ってからメイニーは引っ込み、ラガシュはやっと魚をつつき始めた。好みはあっても本当に受けつけない食材はなくて、好かない食事でもまずきちんと片づけるのである。 「そういやアズロさ、ペジオって知ってる?」  一瞬手が止まった。 「クルスが話した?」 「名前聞いただけ」  そこに嘘はあるまいと感じた。ただ、きっと思わせ振りだったのだろう。クルス自身、どんな風に話したものかわからなかったのかもしれない。 「ちょっとした縁があるんだ。行きたいようだった?」 「いや、反応鈍かったからよくわかんないけど」  肩を竦める。役に立たないなあとからかいながら、内心そこそこ動揺していた。 「変に名前だけ聞かせたから、気になるんだろうな」 「縁って何」 「クルスにも教えてないことを知りたいのかい?」 「……ゴメンナサイ」  にっこりとしてみせれば、顔をひきつらせて撤回する。脅しが利くのは結構だけど、何をされると思ってるんだろうな。  その後、話は別のことに移っていったけれど。このことは十分に、僕に覚悟を促した。  きっと、今に。クルスはペジオを訪れるだろう。僕が隠した真実を知るだろう。  あの日の僕よりも、今のクルスは四歳も上だ。年齢差が埋まることはないから錯覚しがちだけれど、いつまでも子供のままではいない。  ――審判が近い。

 書き置きを残して、クルスがいなくなった。  問題のあることではない。仕事の一環だ。ラガシュの商いの旅に同行しただけである。  けれど、行き先がペジオ村であるということは。そうと事前に聞かされなかったということは──。  一本だけの蝋燭の弱い灯りの中で、書き置きをみつめて溜め息を吐いた。  リーシャはとうに寝室に引き上げている。こんな時間に帰ってくることは、まずないだろう。夕食をゆっくりと摂ったりして、意識的に遅らせない限りは。冷静なところではそう考えながら、半分はクルスを待っているのだった。絶対にないとも言い切れない。あとの半分は、ただただ眠れなかった。  日を数えればそろそろ街に戻ってきていい頃で、つまりクルスは既に事実を知っているはずだった。僕が兄でないことも、両親の許から連れ去った張本人であることも。クルスは──帰ってくるだろうか? 帰ってきたとしても、リーシャを連れていくためではないだろうか?  叔母夫婦と暮らしていたところで、二人のためになったとは思われない。真っ当な心の持ち主ならあの夫婦との生活に耐えられるわけがない、もし幸福に暮らせるとしたら代わりに何かが欠落したということである。義憤に駆られて助け出したのだったら、知られても胸を張れただろう。恐れるのはそうではなかったからだ。クルスのためでもリーシャのためでもなかったからだ。  自分のためだった。自分を慕う二人を手放したくなかった。まつわりつく無邪気な笑みと別れたくなかった。甘える呼び声を近くに置いておきたかった。叔母夫婦よりも僕に懐いているじゃないか、と言い聞かせたのは弁解にすぎない。  手紙に目を落とす。普段は省略しがちな点や繋げがちな線を、丁寧にきちんと書いてあるゆえに、少しばかり見慣れない字。  ペジオの村。──そこへ行けば、事実が知れる。  ラガシュと。──これほど信頼できる道連れは他にない。  帰る。──本当に? どんな顔をして?  仮にラガシュが知ったとすれば、驚きはしても責めはしないだろうと思う。驚くことすらないかもしれない、僕なら何を隠していようと意外じゃないとか何とか言って。例えばメイニーに軽蔑されたとしても、さして堪えないだろう。毎日のように顔を合わせるのは流石に気まずくて、あの食堂は辞めるかもしれないけれど。だけど、もし、クルスかリーシャが──。  腕を投げ出して突っ伏した。理不尽でも何でもない。自分が促したことによって、自分の行いが報われるだけだ。  何も変わらないとわかっていれば、一月だろうと一年だろうと穏やかに待てる。けれども今は、変わらないということを、一日でも一秒でも早く確かめたい。……変わってしまうのであれば、一日でも一秒でも引き伸ばしたい。わかりやすい心の弱さ。  帰ってきてほしいのは、何も知らないクルス──なのだ。

「昨夜も遅かったね」  朝食のパンにチーズを挟み込みながら、何気ない風でリーシャが言った。 「起きてた? 気づかなかったよ」 「眠れなかったの。──アズロお兄ちゃんが寂しそうで」  はっきりと指摘されて言葉に詰まる。  そういう辺り、リーシャは敏感なのだ。例えば嵐に怯えているとき、僕自身も不安になりながら平気を装って励まそうとしても、騙されて落ち着いてはくれない。まずは自分が本当に平気にならないといけなかった。瞬時に心を鎮める訓練を、おかげで大分積んだものだ。  今だって、表向きは平然としてみせているつもりだったのだけれど。自分を過信していたか、リーシャを見くびっていたか、らしい。 「もうすぐ帰ってくるよ、クルスお兄ちゃん」 「そうだね」  クルスのことだというのも無論見抜かれている。まあ、これは察しもつくだろう。  サンドイッチの一口目を齧り取り、ゆっくりと咀嚼している間、リーシャはどこか観察するようなまなざしを僕へ向けていた。落ち着かないというほどではないが、その目には何が映っているだろう、どう映っているだろうという気分にはなる。 「カートさんと、仲が良くないの?」  次の言葉はそれだった。 「……どうして?」 「お兄ちゃんの悪口でも言うのかと思って」  それを聞いたクルスが傷ついたら僕も心を痛めるだろうし、もしも感化されて僕を嫌うようなら悲しいだろう。どちらの想像も切ないだろう。実際にどうだったか知らないうちから、辛い気持ちにもなるだろう。そんな風に考えたらしい。  つい苦笑したのは、それなりに正しい推測だったからだ。かなり柔らかい言い方だけれども。 「根も葉もないただの悪口ならどうでもいいけど、本当のこともあるからね。クルスは僕を軽蔑したかもしれないよ」 「かばうと思うよ」  無邪気な慰めに、顔が強張るのを感じた。覚えず、居住まいを正す。 「リーシャ。事情を知らずに答えを決めるものじゃないよ」  高を括っているだろう、リーシャ。自分たちが被害者だなんて思ってもみないだろう。僕には都合がいいけれど、おまえを騙そうとする僕以外の人間にも都合がいいよ、そんなことじゃ。  ……悪事なんて働くものじゃない。断罪されたくない意識と、断罪されるべきだという意識とが混在してしまう。 「アズロお兄ちゃんは、同じような話を聞いたら、クルスお兄ちゃんやわたしを嫌いになるの?」  きょとん、という調子の問いが返ってきた。仮定が無茶だ、クルスやリーシャのなしうる『同じような話』がまず想像できない。とはいえ、事情を知らないことを踏まえれば、それは尤もな指摘だった。  返答に窮していると、やがてリーシャはくすくすと愉快そうな笑い声を立てた。負けを示す大袈裟な嘆息と、本音混じりの苦笑とで応えて、僕はマッシュポテトを頬張った。  クルスが赦してくれると、クルスだけでも失わずに済むとわからないうちは、僕がリーシャに打ち明けることはないだろう。何も知らなければこんなにも不用意に信頼を寄せてくれるのだと、痛感してしまえば却って。もしもクルスが帰らないようなら、リーシャが追及しないのをよいことに、黙ったままでいるのだろう。  尤も、冷静に考えればリーシャまで捨てていくとも思えない。いずれにしてもきっと、クルスは一度は姿を見せる。然るべき報いをつきつけに。  抗えないのなら――それまでは、目を逸らしていたかった。

〈終〉

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