calling

believe in...

 携帯を開いて目を瞠った。ここ数日繋がらなかった番号からの着信なのだ。 「由華(ゆか)!? 今、どこに――」 〔うん、あたし、由華。今、交差点にいるの〕  訊いたことの答えがきっちり帰ってきて、詰まった隙に通話は切れてしまった。……駄目じゃないか。繋がったら刺激しないように気をつけなくちゃと思ってたのに。  由華が不意に姿を消したことについて、心当たりは何もなかった。計画的な家出だとすれば打ち明けられなかったということで、突発的な家出だとすれば感づけなかったということだ。が、いずれにせよ、由華自身の意志によるのなら何でもない。問題は、本人の意志によらなかった場合で。  今の電話を思い返すと、けれども心配はなさそうだ。落ち着き払った口調だったし、あの台詞は――。  と、再び携帯が鳴る。今度はこちらも落ち着いて出た。 〔あたし、由華。今、病院の前にいるの〕  そう告げて、切れる。黙り込んだ携帯を、僕はまじまじとみつめた。  メリーさんだよな、さっきもこんな風だったし。……これやりながらうちまで来る気だろうか。  まあ、帰ってきたんならいいや。遊んでる余裕があるぐらいだ。家に帰るつもりでいるとは限らない、顔を見せに来ただけかもしれないが、無事が知れたことに安堵して、笑みがこぼれるのを僕は自覚した。  三度目の着信、ワンコールで取る。 〔あたし、由華。今、お寺の前にいるの〕  メリーさんがそんなとこに立ち止まってたら除霊されやしないかね。  ところで最後の部分はどうする気なんだろう。玄関を開けたときにはみつからないでおいて、その後部屋の中で背後に忍び寄る、なんて生身では難しそうだけど。 〔今、中華料理屋の前にいるの〕  順調に近づいてきている。お寺と中華屋の間には目立つケーキ屋もあるのだが、間隔が狭くなるから飛ばしたんだろうか。 〔今、蕎麦屋の前にいるの〕  ――ん?  蕎麦屋。どこだ? 思い当たらずに首を傾げる。病院、お寺、中華屋と来て、その先のどこに蕎麦屋なんて。  ……もしかして。 〔今、テニスコートの前にいるの〕 「――ちょっと、待った!」  思わず立ち上がって叫んだが、通話はつれなく切れてしまった。鞄をひっつかんで飛び出す。そっちかよ!  僕の家がゴールだと思っていたから、僕の家に至る道筋で考えていた。そりゃ思うだろう、メリーさんなんだから。が、どうやらそうではなくて、途中から別の方向へ進んでいたらしい。だからケーキ屋がなかったんだ。  といって由華の家に向かってるんでもない。放っておいたら今度はどこへ行ってしまうか。自転車の鍵を急いで外しているところに次の着信が来た。 「――由華!?」 〔うん、あたし、由華。今、八百屋の前にいるの〕 「今から行くから!」 〔――うん〕  ちょっと嬉しそうな声がした。  ああもう、来てほしいなら固有名詞ぐらい使えよ! お寺とか中華屋としか言わないから気づくのが遅れたんじゃないか。  八百屋を目指して自転車を飛ばす。聞き落とさないように携帯の音量を上げておいたのだけれど、その間は一度も鳴らなかった。次の場所を知らせてこないということは、ここで待っているということだろうか。  と思いきや、到着するなり見ていたかのように着信音が響く。 〔今、駅にいるの〕 「乗る気?」  今度は答えがないまま切れた。  まあ、駅ならすぐそこだ。降りた自転車をそのまま引きずって向かう。駅前の店を全部舐めていたらきりがないから、この辺りを無視したのは別に妙でもない。 〔今、下りのホームにいるの〕  乗るってことだな。  駐輪場に回っている時間はないので、自転車はそのまま駅前に停めた。切符はとりあえず一番安いのを買う。下りるときに精算すればいい。  下りのホームの端に出て、ざっと眺めれば人はぱらぱらといた。由華らしき姿は見当たらないが、反対端に近いのだろうか。ていうか、みつけかねないけどいいんだろうか。  捜すかどうか迷っていると、十回目ぐらいになる着信が入る。はい、もしもし、などと言うのがちょっと白々しくなってきた。 〔あたし、由華。今〕  向こうは飽きもせず名乗りから始めたが、ここで初めて、固有名詞を告げた。  三つ先の駅だった。ここからは各停で八分ほどかかる。あれ、と思った。切符を買って上がってくるまでの短時間で着ける場所じゃないし、下り電車も出ていなかったはずだけれど。  無論、律儀に自分も移動しながらかけてこなくたって構わないのだ。途中で追いつかれても気まずいだろうし、そもそも遊びのようなものなのだし、メリーさんの法則からは既に少し外れているのだし、やりたいようにやればいい。  が――そこだ。由華は、どうしたいのだろう。何がしたいのだろう。  捕まえなくちゃと追ってきたけれど、そしてそれは由華の意に適っている様子なのだけれど。一体どこへ、何のために、僕を連れていきたいのだろう。見せたいものがある。会わせたい人がいる。それとも。  十一回目の着信はなかなか来なかった。八百屋以降の流れからすると、次は三つ先の駅に着く頃を見計らってかけてくるのだろう。見計らってというか、本当に見ているかのような絶妙のタイミングで。……そんなに勘がいいとは知らなかった。  静かになった携帯を開き、由華の名前で急に埋まった着信履歴を僕は眺めた。何を考えてる。何を望んでる? 何があった? メリーさんは――ただの遊びで思いつきかい、由華……?

 ホームも一つなら改札も一ヶ所しかないシンプルな駅だった。名前には馴染みがあるが降りるのは初めてだ。下り方面には滅多に来ない。  待ち構えていたように携帯が鳴る。 「着いたよ」 〔うん。――あたし、由華。今、商店街の入り口にいるの〕  一瞬普通の会話になったような気がしたが、一呼吸置いてメリーさんに戻る。商店街。あれか。……見当たらないけど、本当にいるのかね。  この先もこの調子でやられると、追いかけるのが大変なんだけどな。元は自分は動かなくて向こうが近づいてくるものなんだし、さっきまでは地元だったからすぐに場所がわかったけど、知らない町で八百屋だのテニスコートだの言われても。  が、それは由華も心得ているようだった。 〔今、角の玩具屋のそばにいるの〕  さっきまでなら玩具屋としか言わなかったところに前置きがつく。商店街をとりあえずまっすぐ歩くと、最初の四つ角に玩具屋がある。 〔今、坂の下の楽器屋のそばにいるの〕  坂になっているのは左手だけだ。左へ折れて下っていくと、一番下に楽器屋がある。 〔今、焼肉屋のそばにいるの〕  これは遠くからでも見える大きな看板が出ていた。 〔今、一つ先のバス停のそばにいるの〕  焼肉屋の真ん前にバス停があるから、その一つ先ということだろう。  追いかけやすいように気を遣っているのがよくわかった。そばに、という言い方に変えたのは、厳密な位置を特定しないようにして、目を向けてもみつからない言い訳にするためだろうか。そこを工夫するよりも、メリーさんにこだわるのをやめた方が早いような気はするけど。  ――メリーさん。捨てられた人形の妖怪。  なんでまた、と最初は不思議だったけれど、一つの可能性を僕は思いついていた。  まさかな、とも思う。そんなのは考えすぎで、やっぱり特に意味のない遊びでしかないのかもしれない。由華らしいわけでも由華ならやりかねないわけでもないけれど、由華らしくないわけでも由華ならやるはずがないわけでもない。第一、由華ならやるはずがないなんて言えるほど、僕は由華をわかっているだろうか? 家出の気配も読み取れなかったのに。  ……どうして、はっきり言わない。直接呼びに来ない。ちょっと立ち止まれば合流できるものを。 〔今、橋の向こうにいるの〕 「橋? 川あるの?」 〔あ……〕 「あ、あれか」  ほっとしたように息を吐くのが聞こえた。  みつけられないかもしれないと心配するぐらいなら、こんなやり方をしなければいいんだ。なのに、何故。……言えない? 来られない?  ……それはともかく、向こうってことは渡るんだよな。さっきのバス停といい、丁寧に僕目線で教えてくれて……。  ……どうでもいいんだ、そんなことは。いや、何としてもついてきてほしいという思いの表れならば、どうでもいいということはないが。 〔今、川の上流にいるの〕 「大雑把すぎない?」  半ば反射的に突っ込みを入れてしまったけれど、まあとりあえずは川に沿っていけばいい。まさか源流まで遡れというわけではないだろうから、どこかで川から離れることになるはずで、――どのタイミングでそれを教えればいいのか、どうやって判断するのやら。  川といっても流れているのは、道よりもずっと低いコンクリートの間である。ほとりを歩く、という感じにはならない。周りは住宅街だ。目を引くようなものはないし、携帯の着信もしばらく途切れて、意識がどこかに向くことがなくなった。  そうなればあの疑念から気が逸れることもなくなる。まさかと打ち消した想像が、再び浮かぶのを紛らわせられなくなる。  由華が怪談を真似て遊んだ例を、少なくとも僕は知らない。家出の気配を読み取れなかったのは、僕が至らなかったためかもしれないが――家出ではなかったためかもしれないのであって。家出ではなかったのだとしたら。……こんな悠長なことをしていられるということは。  まさかな。まさか。……けど、だったら、どう説明する?  ――禁じ手かもしれない行動に、僕は出た。由華の携帯に、こちらからかけたのだ。  呼び出し音が鳴る。三回、四回、驚いたのかまだ出ない。六回、七回、もうすぐ留守電になってしまう。九回、――あ。 〔……もしもし……?〕  恐る恐るという調子で、メリーさんは応えた。 「由華。今、どこ」 〔……ちょっと待って。もうちょっと、かかるの〕 「時間がかかるのはいいけどさ」  ここで遠慮していては反撃に転じた意味がない。 「どこに連れてくつもり?」  単刀直入に問う。返事はなかった。  急かさずに待った。気になることは他にも幾つもあるけれど、知りたいことはたった一つだ。どこに行くのかということも枝葉の疑問にすぎない。本当の問い、核心は向こうもわかっているだろう。行き着く先がどういう場所で、そこには何があって、それは何を意味するのか――。  由華はずっと無言だった。我慢比べのように僕も黙っていた。いつの間にか切れているのではないかと疑わしくなりそうなほどしんとしていた。尤も、本当に切れれば無音にはならない。歩を進めている気配も、息遣いすらも、聞こえてはこなかった。 〔あたし――由華〕  震える声が不意に沈黙を破った。 〔もうすぐ、柳の下に着くの〕  ぷつっ、と。耐えかねたように。  口にしたくないことを訊いたらしい。……追及することもないだろう。僕にとっても耳にしたくないことだろうと、……薄々、感づいているのだし。  やがて柳並木が現れた。どの柳だろうと迷う必要も、暇もない。一本目の枝の下に足を踏み入れた途端、案の定と言おうか、着信音が響く。 〔あたし、由華。今、三つ目の角にいるの〕  由華は静かに告げた。動揺と緊張は収まったようだが、心成しか沈んでいるような。 「三つ目だね」 〔ん〕 「由華」 〔……何?〕 「さっきは、ごめん。余計なこと訊いた」 〔……ううん。でも、もう少し、待って〕  もう少し。もう少しで。――そこに、着くのだろうか。  三つ目の角で立ち止まる。鳴る前から携帯を開いて、着信とほとんど同時に通話ボタンを押す。 〔左に曲がって二つ目の角にいるの〕  住宅街に入っていくわけだ。左に曲がって、二つ目。四つ角。 〔右に曲がって四つ目の角にいるの〕  右に曲がって、四つ目。四つ角。 〔左に曲がって、突き当りの角にいるの〕  突き当りの角。ああ、丁字路か。そういえば由華だったっけ、『T』じゃなくて『丁』なんだよって得意気に教えてきたのは。  十字キーに操られるゲームキャラのように、僕は由華を追いかけた。後ろ姿が見えることはない。すれ違う人は皆無ではないものの少なかった。立ち止まっては携帯を開き、閉じてはまた歩み始めるのを、妙だと見咎める人などましているはずもない。  そして。 〔黒い屋根の家の、前にいるの〕  ――そこは、空き家と見えた。 〔あたし、由華。今、庭にいるの〕  庭。玄関じゃなくて。  庭へ踏み込む。なかなか広い。家の中での物音が、道路や隣家に聞こえなくてもおかしくない程度に。  着信音。足を止める。携帯を開く。 〔あたし、由華。今、あなたの〕  間があった。 〔――下に、いるの〕  ……やっぱり。  僕は地面を見下ろした。ここに。この、足の下に。  ありえないと思った。認めたくなかった。電話をかけてこられる由華は、当然無事でいるはずだった。 「……少し、待って」  呼びかけた。メリーさんを真似ていてもメリーさんとは違う。まだ、終わりじゃない。終わってはいけない。 「迎えを呼ぶから。家に……君の家族のところに、帰れるようにするから」 〔うん〕  答えは短かった。  それが僕の役目だ。僕にできる数少ないこと。僕が由華にしてやれること。 「携帯もここにあるの」 〔うん〕 「電源、入れといて」 〔わかった〕  少し笑ったようだった。 「……待っててね」  念を押して携帯を切り、念のため一度かけ直した。軽快な着メロが足の下で鳴った。

 携帯で地図を見ながら駅前に戻って、交番でほぼありのままを話した。即ち、行方不明の友人から電話があって、ここまで呼び出されたと。庭に無断で入ったことは伏せた。家の前から電話をかけたら、着信音が庭から聞こえたという風に言った。 「悪戯だったら謝りますけど、そういう性質の悪いことするやつじゃないし」  警官の一人は胡散臭そうにしていたが、一人がとりあえずあの庭まで来てくれることになった。そこで僕は由華の携帯を鳴らして、着メロが地面の中から聞こえるのを確かめさせた。  その先は画策するまでもなかった。行方不明の少女の携帯が空き家の庭でみつかって、事件性のないはずがない。話だけでここまで足を運んだ警官が、そのことを無視するはずもない。  そうして由華は発見された。姿を消したその日のうちに死んでいて、その日のうちに埋められたらしい。スタンガンによると見られる火傷が首に残っていたそうだ。僕としてはできるだけ急いだつもりだけれど、家族の許へ帰る前に、警察病院を経由しなければならなくて――さぞもどかしかったことだろう。  あの庭にたどり着いた経緯を何度も訊かれた。僕は何度でも同じことを答えた。最後のささいな誤魔化しの他は、最初から包み隠さず告げている。といって警察が鵜呑みにするわけにもいかなかったのだろう。土の中の由華が握り締めていた携帯に、僕の証言及び着信履歴と一致する、由華が死んだ後の日時の発信履歴が残っていようと。  正直扱いに困っていたんじゃないかと思うが、ほどなく犯人が捕まってその辺りは曖昧になった。気懸りなこともこれでなくなった。犯人の末路が気になるは気になるけど、無罪にも軽い刑にもならないだろうという見通しはついた。  ――いつでもいいよ、由華。待たせたというか、僕こそ待たされたけど。

 携帯が鳴った。  携帯なんだ、と思った。由華の手許には由華の携帯はもうない、というか由華はとっくに電話なんてかけられる体じゃないわけで。  手に取って、ベッドに腰かけた。半ば俯いたまま操作し、耳に当てて顔を上げ──目を見開く。 「あたし、由華。今、あなたの前にいるの」 「……見えてるよ」  くすっと由華は笑った。つられるように笑んで、僕は携帯を閉じた。  亡骸でも遺影でもない由華がそこにいた。普段と違う姿を見せられていたせいか、普段の姿がとても懐かしく感じられた。 「メリーさんなら犯人につきまとえばよかったのに」 「あいつの番号知らないもん」  肩を竦める。ああ、それじゃ仕方ないか。 「じゃあなんだってメリーさんなのさ」 「察してくれるかなと思って。……ストレートに言いにくいじゃない。悪戯だと思われたら嫌だし」 「ストレートに言ってくれても信じたけど?」  目を瞬けば、由華は虚を衝かれたような顔をした。それからふっと息を吐いて、そうかもね、と呟く。  まあ、言いたくはないかもしれない。嫌というほどわかっていることでも。自分は死んでいる、殺されているなんて。 「──行くなら、いつでもいいよ」  言いにくいかもしれないことを、僕は代わりにと口にした。  メリーさんが背後に到達したとき、何が起こったかは語らないのが基本だろうけれど、想像されるのは死、というか殺害だ。情緒は幾分失うが、刺されたとはっきり言うこともある。それをなぞったということは。  が、由華は先ほどの僕のように瞬きをした。あれ、と僕は首を傾げる。 「迎えに来たんじゃないの?」 「違うよ」  言下に否定。あれ。 「……あのさ。メリーさん」 「いや、そういう風に思われたかなとは思ったのよ、確かに。だから家族のこと持ち出したのかなって」 「持ち出したって。あ、家族のとこに帰すって言ったから?」  自分と対面した家族が泣き崩れるのを、由華は恐らく見ていたのだろう。僕が死ねば僕の家族が同じように悲しむことになる。だから殺さないでくれとさりげなく訴えたように思われたらしい。なのに今は逆のことを言ったから混乱したんだろうが。 「そんな遠回しなことするぐらいなら直接頼むよ」  顔を見合わせる。  ややあって、由華は吹き出した。 「わかりあってるわけじゃないってことね」 「本当だよ」  誤解とわかれば結構酷い誤解だ。殺すつもりだと思ったり、拒まれたと思ったり。疑うだろうと思ったり、遊びだと思ったり。少しもということはなくても、案外わかっていなかったわけだ。 「でも、じゃあ、怖くなかったの」 「だって、いきなり絞め殺したりするはずはないだろう。一緒に行きたいならまずそう言うだろうって」  メリーさんじゃない、由華なのだ。僕が殺したわけでもない由華なのだ。どうして怖がることがある。何をされると恐れる必要がある。  例えば、一人が寂しかったとしても。理不尽に殺されたのが悔しかったとしても。問答無用で道連れにするはずがない。僕まで理不尽な目に遭わせるはずがない。由華はそういう人間ではないと――わかっていたから、とは言えないのなら。 「信じてたから」 「……その信頼には応えられてたと思うわ」  納得したような照れくさそうな様子で微笑む。さっきから色々な笑顔が見られて――嬉しい。  不意に、ふわりと、由華は隣りに座った。 「伝わってないと嫌だから」  僕の体に腕を回す。手応えが感じられなくて、少し恨めしくなった。そんなこと、思い知らせなくていいのに。  触れているのに触れられていないのを、見ていたくなくて目を閉じた。その分だけ、耳を澄ます。 「あたしの電話を聞いてくれてありがとう。最後まで来てくれてありがとう」  ……うん。 「あたしを覚えてて。今のあたしが本当にいたことを忘れないで」  夢だったとか、どこの誰がどうやったかもわからないような悪戯だったとか、記憶をすり替えてしまわないでほしいと。  そんなことを心配してたなんて。やっぱりわかってないな、お互い。 「っていうお願いを無視して、勝手に追いかけてきたりはしないと信じてるんだけど」 「信頼には応えます」  由華の言葉を僕は返した。ふふっ、と声がした。 「――ありがとう。さよなら。大好き」  ……伝わってるよ、それは。みんな。 「僕もだよ。由華」  好きだよ。さようなら。ありがとう。 「うん。うん……」  少しずつ、泣きそうになっていって。少しずつ、小さくなっていって。  目を開けたときには、由華はどこにもいなかった。

〈終〉

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