voice

7.SNOW WHITE

 錯覚に陥る。ただ行儀よく眠っているだけ、のような。  当然と言えば当然ではある。医療関係者でも家族でもないのに病室に入れるということは、容態がそこまで安定したということだ。危険な状態である間は近づくことさえできない。僕に見えるのはある程度まで落ち着いた姿に決まっている。  そろそろ意識も戻っていいはずだった。その気配は一向にないけれど。 「気まずいのかもしれないけどね。起きて大丈夫だよ、明日香」  呼びかける。眠っていても届くだろう、脳は働いているのだから。 「誰も怒ってないから。お父さんもお母さんも、お兄さんたちもお姉さんたちも。みんな心配してる」  実を言うと少しばかり誤魔化しはあるが、今の明日香が気にするだろう人たちは、みなそれぞれに明日香を案じている。向き合うことを恐れる必要はないのだ。  だから、そろそろ目を覚ましたらどうかな。

 明日香を含む家系図は少々ややこしい。父親と亡き先妻との間に異母兄が三人。父親と愛人との間に異母姉が二人。亡き叔母の忘れ形見にして父親の養子、実の従兄にして義理の兄が一人。母親と別れた先夫との間に、異父兄が二人、異父姉が一人。明日香とはみな、少なくとも片親が違う。  決して多数派ではないのに、この社会における家族というものを象徴しているような気がする。結婚を一度で成功させるべきものとは捉えなくなって離婚や再婚が増え、婚姻制度を差別的だとか義務過多で割に合わないとか厭うようになって事実婚が増え、夫婦関係を束縛としか見ないようになって住居も家計も一にしないカップルが増えた。親の経済状況によって子の生活や教育が滞ってはならない、という考えから助育金制度が発達して、子沢山ゆえに生活が困窮することはまずなくなった。  尤も、一夫多妻を当然のこととしている社会であっても、同じ夫を持つ妻たちや異母きょうだいの間に、穏やかならぬ感情が渦巻くことは珍しくないだろう。明日香の異母兄たちは、といっても全員ではないが、父親の愛人やその娘たちをよく思っていなかった。異母姉たちの悪口を聞かされながら、自分自身で会ってみないことには判断できないと明日香は冷静に考えた。確かめに行こうと思い立ったのは、異母兄たちが原因だと言って差し支えなかった。  僕が同行したのは、僕と出かけると言えばどこへ出かけるのかは追及されないからだ。変なところへ行ったり変なことをして遊んだりはしないだろうと信頼されているわけで、それを裏切ってはいないと思う。勿論、気心の知れた人間が近くにいた方が、一人で乗り込むよりも心強いというのもあっただろう。といっても僕は姉妹の対面には立ち会わず、駅前で別れて喫茶店で待機していた。  リミットの三十分前になったらメールを入れる、返信がなかったらその五分後にコールを入れる、という約束だった。リミットというのは本当にリミット、それより遅くなると家族が案じるか怪しむかするだろうぎりぎりの時間──に帰宅できるトレインの発車時刻だ。それより早く戻るつもりだと明日香自身は言っていたが、話が弾んで時間を忘れるぐらいの方が寧ろ望ましいだろう。  予定の時刻に明日香が戻らなかったことを、だから僕は怪しみも危ぶみもしなかった。気が合ったらしいなと満足していた。思い返せば確かにその頃、救急車のサイレンを聞いたはずだ。  帰り道で車にはねられたと知ったのは、大分後のことだった。

 病室に入ると先客がいた。明日香のお兄さんとお姉さん──血縁としては従兄になる末の兄と、母親違いの上の姉だ。 「明日香の友達だよ」  おどおどするお姉さんにお兄さんが教える。 「あ、うん、知ってる……」  申し訳なさそうに答えるお姉さんとは、つい先日、この病院で顔を合わせている。人見知りが激しいようだから、にも拘らずこんな反応なのもおかしくはなかった。 「この子に言ったことは大体明日香に筒抜けになるから気をつけて」 「聞かれたら困るようなこと話してたんですか?」 「いつ起きるかわからないのに?」  くすくす笑って、お兄さんが明日香を見やる。対照的にお姉さんは沈み込んだ。 「本当に、いつになったら……」  泣きそうな声で呟くのに、お兄さんは眉を寄せた。 「そういうことは言わない約束でしょ」 「……ごめんなさい」  悪い方へ悪い方へと考えてしまう性格らしい。しゅんとしてしまったお姉さんに、怒ったというより困った様子でお兄さんは肩を竦める。気を悪くしてはいないようだ。  医師でも看護師でもない僕には、目覚めるための手助けはしてやれない。が、目覚めたときに備えておくことならできる。親きょうだいの言動を見ておくこと。あるいは、聞き出しておくこと。非常事態だからこその、取り繕う余裕が普段ほどないときの、即ち本心に近いだろうそれを、伝えてやれるように。  例えば、僕よりもずっと早く治療室に駆けつけて、明日香の名を必死に呼び続けていたという両親。病院に通う間に何度か会って、あの日のことも話したけれど、黙って異母姉たちを訪ねたことを不快がっている様子はなかった。思うところはあっただろうが、というか小父さんには是非ともあってほしいところだが、少なくとも明日香を強く咎めることはないだろう。  親たちにも兄たちにも姉たちにも共通して言えるのは、明日香の無事を願っているということだ。同じことを願うからといって心が一つになるわけでもないが。  ……父親違いの兄姉の方は、どうなのだろう。事故現場にいたわけでもないし、一緒に暮らしたこともないのだから、見舞いに来なくても、事故のことすら知らなくてもおかしくはないけれど。 「キスしてみたら?」  お兄さんが急にそんなことを口にして、僕は目を瞬いた。僕に言った……よな? その前を聞いていなかったせいか、意味がつかめない。 「起きるかもしれないじゃん」  ぴんと指を立てるお兄さんの横で、お姉さんがちょっと顔を赤くしている。ああ、なるほど。さっきの落ち込んだ感じよりは、少しは元気そうだな。 「それじゃ起きるなり怒られそうだし、起きなかったら後でもっと怒られますよね」  それには笑って返して、ベッドへ視線を向ける。それで意識が戻るなら安いものだけれど、残念ながらこれは呪いの眠りではない。物理的な毒林檎の方がまだ近い。――口づけて目覚めるものなら人目があってもそうするし、どついて目覚めるものなら情緒がなくてもそうするのに。  目を覚ますことは疑っていないけれど。何年も何年も先になるのではと恐れてもいないけれど。ちょっと待たせすぎじゃないかなとは、思う。焦らしすぎると逆効果になるよ、明日香?

 もう二十日になる。  声をかける気分にもならず、僕はただぼんやりと明日香の寝顔を眺めていた。  明日香の異父姉が来ていたときのことを、遭遇したという二番目の異母兄から聞いたのだ。明日香を嫌っている相手のことだからいい話じゃないぞと念を押されて、それでも聞きたいと言ったのだから恨むのは筋違いである。……死ねばよかったのよ、と言い放ったらしい。  そんな反応を知ったのは初めてだから、実は動揺しているのかもしれない。きっと思い上がっていたのだ。道徳的に正しい想いを誰もが抱くとは限らないからこそ、本心を見極めて伝えてやろうと首を突っ込んでいたのに。  明日香の母親が先夫と離婚したのも、異父姉たちを引き取らなかったのも、明日香に責任のあることではない。それはおもしろくもないだろうが、この期に及んでそんなことを言うほど、母親やその今の夫ならまだしも、明日香を憎まなくてもよさそうなものだ。  ……この目が開かなければいいと、本気で思っているのだろうか。偽悪趣味でないとは言い切れないけれど。  いつもと違う錯覚に、時たまふっと陥りそうになる。眠っているかに見えて――生きているかに見えて、本当は息絶えてしまっているかのような。現金じゃないかとことさらに呆れてみても気は紛れない。といっても、悪意の言葉に引き起こされた感情は、不安より不満に近くはあったが。  ねえ、明日香。寝姿はもう見飽きたよ。亡骸に惚れ込んだ王子とは違うんだから。君に似合うのはやっぱり、無邪気にはしゃぐ顔から冷淡に突き放す顔まで、あれこれ表情を変えながら飛び回っている姿だ。君らしさは、君の魅力は、ガラスケースに納めて飾っておきたいような類いのものじゃない。  片手を延べて、頬に触れた。体温はある。手を滑らせて、指先で脈を探す。意味のないことだ。脈拍は機械がずっと計測している。危険な数値になれば信号を送って、医師や看護師をさっさと呼び出しているはずなのだ。 「明日香……」  呼びかけた声は妙に静かで真剣だった。却って不吉な響きに我ながら顔をしかめて、打ち消すように手を引いた、そのとき。  その兆しすらなかったこれまでをするりと無視するように。  明日香は目を開けた。 「……今はまずいよ」  僕自身が目を覚ましているかどうか認識するのにたっぷり五秒はかけた後で、こぼれたのは苦笑だった。 「親きょうだいが取っ替え引っ替え来てるっていうのに」 「……最初が、それ?」  自分こそ最初の一言にしては、情緒も何もないじゃないか。  肩の力が抜けた。  勿論、目覚めるに決まっていたのだ。助かるに決まっていたのだ。危ぶむ人がいようとも、望まない人がいようとも。

 急を聞いて駆けつけたときの両親のこと。カレッジを休んで帰ってきた上の兄たちのこと。動揺が著しかった三番目の兄のこと。家族以外は病室に入れない時期から通っていた姉たちのこと。二人をさらりと受け入れた四番目の兄のこと。  死んでしまえと思っている人が一人いるとしても、その逆を願っている人はもっとたくさんいる。一つ一つ話していきながら、僕は上機嫌だった。  その一人のことを話す段になって、流石に躊躇う。沈黙してしまったその数秒を、語り終えた合図と取ったのだろう。 「足りない」 「え?」  再び目を閉じて聞いていた明日香は、片目だけを薄く開けた。 「あっちの姉さんは?」  ……勘がいいな。何もない可能性だって、普通にあるだろうに。 「聞きたい?」 「聞かせて」  碌なことじゃなくても、と付け加えて閉じ直す。まあ、隠すことじゃあない。本人に覚悟があるなら少しは話しやすいし。  実際、然程ショックを受けた風ではなかった。期待に添えないのはお互い様ね、と呟いただけだ。予想の範疇だったのかもしれない。 「お兄さんたちのことは訊かないの」 「来たの?」 「来てないよ」  結局見ずじまい、聞かずじまいだ。単に僕が聞いていないか、誰ともかち合わなかったのかもしれないが。  やはり予想通りという風で、明日香は軽く息を吐いた。 「あっちの兄さんたちはね。上の兄さんはこっちのためにも関わらない方がいいと思ってる。下の兄さんは本当に興味がない。多分」 「……僕が嗅ぎ回る必要なかったかな?」  調べるまでもなかったような感じだ。  横になっていなかったら、小首を傾げたところだろう。 「あなたらしくないわね。わたしのことは把握してる自信があるんじゃないの」 「僕が知ってる君は、みすみすはねられたり意識不明を二十日も引っ張ったりするようなタイプじゃなかったからね」 「……それは反論できないけど」  別にやり込めようとしたわけじゃないよ。 「尤もらしくたって、想像は想像だもの。できれば本物を確かめたいわ。――適確よ。ありがとう」 「それならよかった」  明言に応えて、僕は笑んだ。  その気になれば事故を防げたというわけでもない。異母姉たちに会いに行ったことを、こんな事態になって隠し通せるわけもない。できることには限りがあるのだ。物語の王子だって、継母の王妃から姫を守ることはできないし、城にいられなくなった姫を保護することはできない。  できないことを嘆いても仕方ないから、代わりに何かできることをしてやりたかった。見当違いだったとしたら、……自分が読み違えたことも含めて、ちょっと悲しかったところだ。 「調査ついでに相談にも乗ってくれるかしら」 「他の人たちと最初に顔に合わせたときにどう振る舞うか?」  ほら、わかってるじゃないの――とばかり、明日香は満足げに目を細めた。  じゃあ、もう一仕事だ。僕は口元に手をやって、次にこの病室を訪れるのが誰になりそうかを考え始めた。

〈終〉

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